1つの季語を巡って、上原・若洲がそれぞれ考えていることをざっくばらんに書いていく「ゑひの歳時記」。普通の歳時記には書かれていない季節感や季語の持つ魅力、難しさなどをお伝えしていくコーナーです。7月1つ目のお題は「熱帯魚」。上原が出したテーマに対して、若洲も考えます。
若洲の場合(回答者)――大まか上等――
「熱帯魚」というお題をもらって、机の前に座って、締切ぎりぎりまで考えていたにはいたのだが、何も思い浮かばぬ。
上原は生き物を飼ったことがほぼないようだが、私は魚を飼ったことがある。飼っていたのは熱帯魚とは全く違う魚種ではあるが、それでも飼ったことがないよりはイメージが湧いている方だと思う。にもかかわらず、何も思い浮かばない。これはいかなることか、ちょっと考えてみようと思う。
辞書における「熱帯魚」の説明は次のようになっていた。
ねったい-ぎょ【熱帯魚】
精選版 日本国語大辞典 (2006)
熱帯・亜熱帯域に産する魚。ネオンテトラ、グッピー、アロワナなどの淡水魚やチョウチョウウオ類、キンチャクダイ類、ヘラ類などの海水魚などがおり、姿、色彩の優美なものが多いため観賞用に飼育される。
……。固有名詞を除いて新しい情報はない。つまり熱帯魚とは何者か、大まかなところはわかっているのだ。そうであるのに書けない。
いや、おそらく「大まかなところがわかっている」から書けないのだろう。という方向性で、ここからエンジンかけていきます。
季語の共通理解
熱帯魚という季語は、句会などに行くと割と見る。つまりそれほど珍しい・作りにくい季語ではないということだ。熱帯魚・天使魚(エンゼルフィッシュ)などは頻繁に目にする。これが上蔟(過去記事参照)とかになるとそうは行かないので、少なくとも読む側の共通理解は得やすい季語だということだ。
その共通理解の中では、大概熱帯魚は水槽に入っていて、その水槽は小綺麗な部屋の片隅に置かれている。熱帯魚を飼うとそこには、飼う前と違う何らかのムードが生まれるが、だいたいは「大人な雰囲気」になる。見た目が派手だし、飼うにもお金がかかるからだろう。そんな季語の共通イメージをベッタベタに固めて作ったのが下記だ。
天使魚に東京見えてゐて暗い 若洲至
ここからは、この季語に対する筆者の疑問を列挙していくことにする。このイメージが、俳人から愛される理由に、徐々に近づいていく。
熱帯魚に対する疑問1:熱帯ってなにさ?
「熱帯」は、高校で地理を学ぶと出てくる概念だ。最寒月(もっとも気温が下がる月)の平均気温が18度以上になる地域を指す。日本の近くであれば、東南アジアの赤道付近がこれに当たるほか、世界中の名だたるアイランドリゾートは、だいたいこの地域に含まれている。多分このエキゾチックな語感が、大人な雰囲気を演出する材料として用いられる一つの要因だ。
しかし熱帯という言葉そのものは、結構お硬い言葉だったはずなのだ。もともとは生物学や地理学の用語として日本に入ってきた概念だろうし、辞書で調べても、熱帯雨林・熱帯気団・熱帯収束帯・熱帯病など、専門用語が関連ワードとして多く並ぶ。戦中に日本が占領を目指した地域の大部分も熱帯であり、熱帯という言葉の意味合いは、かつては大きく異なっていたことだろう。
事情があって学問的意義での熱帯のほうが、筆者には馴染み深い。それが理由かわからないものの、「熱帯魚」という単語で演出されるエキゾチックでトロピカルでロマンチックでミラクルでマーベラスな感じの雰囲気には、どこかお気楽な感じを抱いてしまう。これは熱帯魚に分類される魚のせいではなくて、この言葉のせいだ。熱帯地域に産する特徴的な魚を、熱帯魚と安易に名付けた誰かが悪い。
要は「熱帯」という言葉を冠していることへの違和感だ。
熱帯魚に対する疑問2:熱帯魚ってどんな魚さ?
冒頭に掲げた辞書の説明にある通り、私たちは海水魚から淡水魚までの幅広い魚を熱帯魚と呼ぶことができる。エンゼルフィッシュみたいなものも熱帯魚だし、グッピーのような小さいものもそうだし、観賞用ならブダイのような色鮮やかな大型魚も分類されうる。
いや、季語としてそれでいいのか?
なぜこれが問題だと思うかと言えば、読み手の想像するものが大きくズレてしまう可能性があるからだ。文字数が少なく、読者の想像力に詩の鑑賞の大部分が委ねられる俳句において、これは大きなリスクなのだ。
実際、句会などで句の問題を指摘するときによく使う表現として、「情景が固まらない」とか「風景がブレる」というものがある。17音の中で描き出したい風景や、作者の心情など、確定させておくべきこと(俳句によって異なります)をはっきりと定められないことをいう。そういうことを防ぐために、季語は非常に具体的に、定められているのだと思う。
しかし熱帯魚の場合はわけが違う。一見具体的なようでいて、非常に抽象的だ。それらを束ねる具体的な情報は「熱帯に産すること」以外になく、温帯の人間が雑な総称として作ってしまった用語なのだ。いわば「日本の魚」みたいな感じなのだ。それを具体性を大事に(重視)する俳句の中で使って、どうしようと言うのだろう?
言い切るなら、熱帯魚は概念だ。
大まか上等――俳人から愛される理由
実は、疑問2は俳句の世界の中では特に大きな問題ではない。他にも概念の季語は多くあるからだ。「七月」「夏」などの季節や時間の季語は概念だし、総称系季語なら「秋の草」「渡り鳥」などもある。これらの季語は、雰囲気として受け取ればいいのだ。
熱帯魚の場合の「雰囲気」は、やはり冒頭に述べた派手さなどになるのだと思う。そこには、疑問1における「熱帯」の把握も大きく関わってくる。
なぜ熱帯魚という言葉が生まれたのか。その答えは、この言葉の受け取り手たりえた人々が、実際に「熱帯」を知らなかったからだということに尽きるだろう。
仮に「熱帯」を見知っていたら、受け取り手には具体的なイメージが立ち上がるはずだ。少なくとも行ったことのある場所は定まる。そこで見た魚は「熱帯の魚」ではなく「セブの海の魚」だったり「ジャワの川の魚」だったりといった形で記憶される。さらに、暑い日差しや赤い砂、スコールなどを経験すれば、それらが熱帯のイメージとなる。しかし、そうでない人たちにとっては、そこは旅したい場所であり、ロマンになる。ヨーロッパよりは近く行きやすいが、見たことのない世界。パワフルで魅惑的な世界だ、ということで理解される。
そんな世界から、遠路はるばるやってきた一匹の魚を見れば、それは熱帯というものへの夢を投影させる対象になるだろう。向こう側の世界がどうなっているのかを知る前に、熱帯魚の美しい姿に触れてしまえば、その先の現実へのアクセスはストップするのだ。これが「お気楽」な雰囲気の理由だろう。
しかし、それが俳句においては都合が良い面もある。熱帯魚に分類される魚について理解を深めることなく、受け取り手側のイメージだけを使って詠むことができる、概念の季語だからだ。季語に対する理解が「大まか」な状態でもなんとなく仕上げられる、便利な季語だからこそ、句会で多用される傾向にあるのではないだろうか。
ちなみに先程、疑問2は俳句の世界の中では大きな問題でないと述べた。ここまで書いたような内容は、あくまで俳句の世界の中の話だ。もしこんなことを理解して俳句を読め、と言われたら俳句は読まれなくなるだろう。だからこそ俳句の世界の中の人は、中で使われている概念が、想像以上に自分たちに都合よくなっていることに自覚的でないといけないと思うが、果たして「大まか上等で」楽をしている状態から、いつか脱却できるだろうか。
上原の場合(出題者)――季語のリトマス試験紙――
指先はおいしい味や熱帯魚 上原温泉
季語「熱帯魚」は、観賞用の魚類を指すと、筆者は長らく理解してこなかった。生き物を飼ったことがないという話は別の文章でも書いたが、よって観賞用の魚にも馴染みが薄い。逆に、年に一回程度、南方の海中の魚と戯れる機会がありそのほうが身近だったから、海の中で共に泳ぐ、あれがすなわち熱帯魚だとばかり思い込んでいた。これまでの熱帯魚の自句は一掃するしかない。泣ける。
掲句も本当は、海の中で熱帯魚に手を齧られた経験が元になっている。素人でも参加可能なシュノーケリングのエリアで、おそらく客寄せのために係員が餌付けをしているのだろう、やけに熱帯魚が体に近づいてきて、うるさい感じがあった後にカプッとやられた。だからこの句の「熱帯魚」は季語としては機能していない本当は。
ただ幸いなことによくわかっている俳人は、掲句の熱帯魚を観賞用として読んでくださると思う。水槽に餌を撒く手に群がる熱帯魚。おぉ。そのように読めるではないか。作者は余計な説明をせず黙っていればよい。拘るほどの名作とは全く思っていないのだが、海の中で魚に嚙まれた記憶を残しておきたかった。以後は熱帯魚の句、正しく作りますのでお許しください。
生息している場所で分けるならば、魚は、海水魚、淡水魚、回遊魚、汽水魚などに分類される。熱帯魚は、その中でも熱帯・亜熱帯に生息するそれぞれのことを言う。それがさらにアクアリストの世界では「アクアリウムで飼育することができるもの」に絞られる。
観賞用の熱帯魚といえば脳裏にまず浮かぶ形、それはたいていの場合、エンゼルフィッシュではないかと思う。熱帯魚の女王と呼ばれ、名前の由来は「大きな鰭を使って泳ぐ様子がエンジェル(天使)のようだから」。
ところが天使のような見た目に反する肉食で、飼育の仕方やコツを調べてみると、縄張り意識が強く、「実は意外と気が荒い」、「大きな個体が小さな個体をいじめる」、「ケンカばかりしている」みたいなことばかりが書いてある。筆者が海で出合った中にはエンゼルフィッシュ風の魚もいたが、それを言うならエンゼルフィッシュに限らずだが、いたってのんびり混泳しているように見えたのは、やはり海が広いからこその余裕であろう。たまたま引き立つ容姿であったばかりに観賞用にされ、品種改良を繰り返され、狭い水槽の中で揉めながら生かされているとは。あまりにも不健全な経緯に同情してしまった。
天使魚に東京見えてゐて暗い 若洲至
だからこういう句になるのかと納得する。「天使魚」は、親季語である「熱帯魚」の子季語(=バリエーション)で、てんしぎょ、または、てんしうお、と読む。文字通りエンゼルフィッシュのことであるが、字数の関係上、俳句に入れやすい4音、5音の言葉に言い換えられたと思われる。
実は筆者はこの呼び方を好まない。耳慣れないことによる違和感もあるが、何より俳句の都合からそのように呼ぶことにしたのが見え見えなところがイヤなのである。しかしその見え見えがまた、不健全なエンゼルフィッシュには似つかわしく、これ以上の言い換えは見つからないように思えてくるのは皮肉な話だ。
さて掲句、タワーマンションの窓際に置かれたアクアリウムか。住んだことがないので想像するしかないが、高層階なら人目がないし、夜になってもカーテンを閉めないことはあるだろう。魚眼に映る夜景は目映いのか? 見え方違うように思うが、人が読むからには人間の目に映るような夜景が再現される。人工的な東京、いわば同質の存在としてのエンゼルフィッシュ、その擬人化、夜景を「暗い」と見る主観。不自然で不健全な要素のすべてが「天使魚」という呼称の違和感と感応し合い、その異形を改めて認識せざるを得ない。
天使魚の愛うらおもてそして裏 中原道夫
横顔がいいね熱帯魚も君も 上原温泉
見ているところは同じなのに、仕上がりが真逆になった句の好例と思い、並べてみた。我ながらなんてオメデタイ作風かと気が滅入る。筆者の句は人様から「情緒が無い」と評されたことがある。「情緒が入ると句が駄目になる」とまで言われたこともある。褒められる場合は即物的なところを良しとされる。どちらも言わんとすることは同じだ。本人は過多気味な情緒の制御に半生を費やしてきたつもりなので、この評価を意外中の意外と感じている。
それで6月号での作句に苦しんだ「水中花」を思い出した。どちらも人間の関与によって成立し、そのコントロール下に置かれることしか、ひらく・生きる方策がない季語だ。だから俳句作品にすると概念や情緒の色が濃くなるのだろうし、それを良いものとして残すためには、相応の力か、賜る運が必要になってくる。
筆者は自身の情緒を恐れるあまり押さえつけ、それはむしろでき過ぎてしまったようだが、それではマイナスをゼロにしただけ、情緒的に成さないというなら決意としてそうあらねば、防衛的な創作姿勢がよろしくない。そういう意味で「熱帯魚」という季語は今後のリトマス試験紙になりそうだ。しかし現況、愛の裏のことは、怖くてとても言えそうにない。
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