ご挨拶
みなさんこんにちは。わたくし、若洲至(わかす・いたり)と申します。普段はこちらのホームページやnoteで、俳句や短歌の作品を発表するユニット「ゑひ[酔]」の一員として、作品作りにまい進しておりますが、今回、「若洲至のゆるり週末俳句学」という題で、長編連載を持つことになりました。
多くの方にとって俳句は、全く見たことのない “完全な” 未知の世界ではないのではないでしょうか。教科書をはじめとする学校やあるいはテレビ番組の中、イベントやパッケージなどで、コンテンツとして、日々活用されている俳句に、全く触れたことがないという方は、非常にまれだと思います。
しかしその一方で、俳句のことをよく知っているという方も、めったにいらっしゃらないことでしょう。趣味として、あるいは何らかの機会があって、俳句を作ったことがあるという方も珍しいはずですが、ましてや俳句がどのような歴史を持ち、俳句の世界においてどのように俳句が評価されてきたのか、名句がどのように歴史に残っていくのか、さらには今後俳句の世界がどのように変化していくのか、そうした展望とともに俳句を理解しようとしている方は極めて少ないのではないかと思っています。
もともと私自身は、純粋に俳句を作って楽しむ、ありふれた一人でした。しかしながら、俳句を読む立場、そして多くの俳句を業とする立場の方々と接する中で、これらの疑問を育てるに至りました。俳句を作り、意味ある活動を続けていくためには、こうした命題に必然的に向き合わないといけないと感じるようになってきたのです。そして疑問に対する考えを自分なりに深めるなかで、俳句の作り手として、俳句界のことを、より多くの方に伝えていく必要性を、強く感じるようになったのです。
今回、私が担当する連載は、従来あるような俳句を紹介する記事とは、全く違った視点から俳句の世界を捉えていきます。もちろん俳句を作る方にも参考になるよう工夫していきますが、最終的には上に挙げたような疑問を取り上げながら、俳句の作り手だけではなく、今までは俳句にあまり馴染みがなかったという方にも興味を広げていただけるよう、さまざまな例を通してわかりやすく解説していくことを目指していきます。そして未来の俳句の読み手を少しでも増やしていく、そのきっかけにしていきたいと考えています。
当面の間は、毎週日曜日に文章を発表していこうと思います(今回は特例的に曜日違いです🙇♂)。身近な例や他の芸術文化との関わりなどにもしばしば言及しながら、面白くてちょっと俳句のことがわかる、そんな連載にしていけるように、努めていきます。
最初のご挨拶としては壮大な目標を語ってしまいましたが、1回ずつの内容はシンプルなものになる予定です。今回は連載全体の設計図少しだけお見せするとともに、後半「俳句とはどんなものか」という項目では、「おためし」的に世間一般的な俳句のイメージを整理していきます。
なお、本連載で発表するすべての内容は、全て筆者のリサーチや分析によるものです。俳句界には多くの立場があり、全く異なる状況に身を置き、大きく違う意見をお持ちの方もいることを承知しています。また、筆者の見識不足により、正確性に欠ける表現や内容が含まれる可能性があります。いずれの場合も、全ての文責は筆者(若洲至)が負いますが、同時に読者の皆様も本連載全体が筆者の意見を反映したものであることをご承知おきいただければと思います。
壮大な計画でスタートする連載になりますので、なにぶん途中での息切れが非常に不安です。最終回までたどり着けるよう努力いたしますので、読者の皆さまにおかれましても、ぜひとも定期的にご覧いただければ大変幸せに思います。なにとぞよろしくお願いいたします!!
全体の構成(2023年8月時点のイメージ)
本連載は、次の3部構成で計画しています。なお、執筆の途中で、以下の構成には変更が生じる可能性があります。
- 第1部:俳句の基礎
- 第2部:俳句を取り巻くものたち
- 第3部:俳句の今とこれから
第1部「俳句の基礎」では、多様な視点を用いながら俳句とは何かを考えていきます。俳句を定義づけたり特徴づけたりするもの、すなわち五七五のリズムや季語・切れなどへの理解を深めるとともに、俳句のカテゴライズの多様性にも着目していきます。
第2部「俳句を取り巻くものたち」では、俳句という詩の一形式に対して、筆者独自の分析を試みます。俳句の作者と読者の関係、作品の評価のされ方などを、表現(創作物)の学問的なカテゴライズを援用しながら、解き明かしていくことを目指します。
最後の第3部「俳句の今とこれから」では、第2部までの内容を踏まえて、現代の俳句の世界で注目されている出来事や潮流を、筆者ならではの見地から検討していきます。また今後の俳句界に対する、筆者なりの展望にも言及できればと思っております。
第1部「俳句の基礎」で扱う内容のまとめ
それでは早速、本編に入っていきたいと思います。まず始めに、第1部「俳句の基礎」で扱う内容をまとめておきます。全体で15回に分けて連載することを計画しています。
- 第1講:俳句とはなにか①(全3回)
- 俳句とはどんなものか/テクニックいろいろ/代表的な俳句の紹介
- 第2講:俳句とはなにか②(全3回)
- 短歌・川柳・詩との関係/第二芸術論とは/世界の中の俳句
- 第3講:俳句のリズム――五七五――(全2回)
- 短歌からの影響と違い/川柳との違い
- 第4講:俳句の言葉――季語――(全3回)
- 誰が季語を決めるのか/廃れる季語・増える季語/一物と取り合わせ
- 第5講:俳句の言葉――切れ――(全1回)
- 第6講:有季定型の外側(全3回)
- 無季定形/破調/自由律俳句
今回は第1講の1回目「俳句とはどんなものか」です。
俳句とはどんなものか
初回ですから無鉄砲に、もっともシンプルでもっとも大きな問いを立てることにしましょうか。
俳句ってどんなものでしょうか?
俳句をちょっとでも見たことがある方は、よろしければ、少し考えてみてください。
「五七五のリズムを持っている」「季語を使わないといけない」
この質問を投げかけると、だいたいこのあたりの答えが返ってきます。皆さんの中にも、上の2つが思い浮かんだ方がいらっしゃるといいなと思います。
「あれ、五七五七七じゃなかったっけ?」という方。極めて惜しい! こちらはよく似た詩の形である、短歌のリズムです。間違えていた方もご安心ください。この2つ、歴史的源流が同じところにある、いわば兄弟分です。向こう何回かの連載で重要な存在として出てきますのでお楽しみに。
季語の方は割と迷いなく思い浮かぶかもしれませんね。学校時代の記憶がある方の中には、もしかすると季語がいくつか思い出せる方もいらっしゃるかもしれません。
一般的にはこの2つの認知がありますが、これと加えて「『切れ』がある」というのを、俳句のもう一つの特徴として挙げることが多いです。「古池や蛙飛びこむ水の音」の「や」に代表される「切れ字」などによって作られる「切れ」については、第5講で詳しく説明します。
まとめると
つまり俳句は、
- 五七五のリズムで
- 季語を含んでいて
- 「切れ」がある
この3点で主に特徴づけられる詩です。それぞれの特徴については、第1部の後半で1つずつ取り上げていくことになります。この原則から外れた俳句、いわゆる「有季定型でない俳句」もありますが、それらについては第6講で詳しく述べていきます。
俳句イメージの大きな誤解
「俳句」イメージのみなもと
では、そのいわゆる「俳句」イメージは、一体どこで形作られたものでしょうか?
よく「俳句」というワードを出すと最近話題になるのは、「プレバト」というテレビ番組です。
この番組の中のコーナーの柱の1つが俳句で、芸能人が作った俳句の善し悪しを、俳人夏井いつき(敬称略)が審査し、「才能あり」の良い作品についてはその良さを語り、「才能なし」の作品に対しては毒舌でその添削を試みる、という内容だと心得ております。注目されている若手芸能人なども参加して試しに俳句を作っているそうですから、番組自体の注目度も高いですよね。
この番組が始まるまでは俳句=シニア世代向けの趣味、みたいなイメージが強かった気がするので、影響力は凄まじいですね。さらに、俳句の表現に隠された奥深さを伝えてくれる、かなり考えられた企画だなあと思います。
あと、皆さんが絶対にご覧になったことがあるのは、伊藤園「おーいお茶」のパッケージに載っている俳句ですね。
これは、毎年開催の「伊藤園 お~いお茶新俳句大賞」という賞に応募された作品のうち、優秀作として選ばれたものが掲載されているものです。応募する側に年齢制限などはなく、また審査する側にもジャーナリストや言語の研究者が加わっているなどの特徴があることから、関わる人の数が日本で最も多い俳句の賞なのではないかと思います。
イメージの中の誤解
これらの番組やイベントは、俳句にする一般的なイメージの形成に、非常に大きな役割を果たしていると思います。しかし、これらを通して作られてしまったイメージには、1つ大きな誤解があります。
それは「俳句は一定の評価軸の上で優劣が決まる」というものです。
こちら、俳句をやっている人の中にもよくある誤解なのですが、そうではないことは他の文化からの類推で考えることができます。
例えば美術館に絵を見に行きますよね。どんな絵でも良いのですが、国内で人気のある印象派の展覧会などを思い浮かべてみましょうか。
展示されている絵の多くは綺麗で価値があるものですが、その中にも一人の観客として、気にいるものもあれば、あまり刺さらないものもあるでしょう。その価値観は観客それぞれ固有のものとしてありますし、それを主張する権利もあります。その一方で、芸術的な価値・経済的な価値・歴史的な価値など、絵に付加されるいろいろな価値も同時に存在しており、これらに基づいてさまざまな主体が展示・売買・保存といった芸術活動をしています。
それはすなわち、各主体には別々の価値と価値基準が存在するということです。
俳句の場合もほぼ一緒です。詩の一形式であるために売買の対象にはなりにくいですが、原則としてそれぞれが自由に価値を決めることができます。ですから、本来俳句の善し悪しは、一人の先生や授賞する側が絶対的に決めることができるものでは必ずしもないのです。
賞や番組としては一定の基準がないといけませんからこれらのムーブメントを否定するものではないですが、それらが唯一のルールだ! ということではない、ということは、はっきりと述べておきたいと思います。
俳句を楽しむすべ
ですから、作り手とならない多くの人にとっては、俳句をもっと自由に楽しむ権利があります。好きな絵や好きな音楽を持つのと同じ感覚で、好きな俳句を選ぶことができます。想像しているよりも気楽に。
それでも多くの方にとって、始めは俳句の17音(5+5+7)が何を意味しようとしているのか、よくわからないですよね。わからないものに対して、好き嫌いや善し悪しを語るのは無理じゃないか……、そう思われるかもしれません。
筆者としては、必ずしもそうは思いません。西洋の絵画だって、現代美術だって、全部の読み解きをしないと楽しめないわけじゃないですよね。初見の印象の美しさや「わからなさ」を楽しむ姿勢だって、鑑賞者の態度として十分なわけです。俳句も同様、読者は基本的に分かる範囲で自由に振る舞えばいいのです。あえて今風に言えば「推し」の感覚で好きな句や俳人がいたって良いんです(「推しの句」!?)。
それでも、読み解きにはコツやちょっとしたルールがあり、それらを知れば俳句を読む楽しみはより膨らみます。
この連載では、そうしたコツのようなものや、それらの背景・理由をお伝えしていきます。全て終わる頃には、おそらく読者の皆さんも、好きな俳句を見つけ、その良さを自分の言葉で語れるようになれるはずです。そうした俳句を楽しむすべを、皆さんと分かち合っていきたいと思うのです。
コメント