「ゑひの歳時記」は、1つの季語の幅広さを体感できるコーナー。上原・若洲が季節を意識しながら毎月それぞれ一つの季語をお題として出し、その季語に関することを自由に書きます。通常の歳時記(季語をまとめた本)では、一般的な季語の説明しかされませんが、このコーナーでは、2人がその季語を俳句に詠み込むときに考えていること、作る時のコツ(?)など、実はお役立ち的側面もあるかも……
この企画は「月刊俳句ゑひ」と連動しています。例句の一部を引用している卯月号はこちら。
上原の場合(回答者)
少なくとも私は、俳句を作り始めるまで、桜の蘂を意識的に見たことが無いし、それが地に降っている状態を気にしたことも無かった。季語としての初見は句会。「桜蘂降る」という言葉の美しさに瞠目して以来毎年、たとえ「桜」を用いた句は作らなくても「桜蘂降る」の句は作るという惚れ込みようで完全に言葉先行、実景は、あぁこれが桜蘂降るということなのかと確認するためだけのもの、みたいなことになってしまっている。
桜蘂降る唇よりも遠き口 上原温泉
まぁだからこんなことになりがちです。こんなこととはつまり、多分に観念っぽいということ。ちなみに句会で「観念ですね」と言われたら、それは褒め言葉ではありません。なぜ観念的がダメかを説明するのは若洲の方が得意そうなので、よろしくお願いしておく。
とはいえ、いちおう私も写生句が作れないわけではない。 が、「桜蘂降る」の場合は、いつも以上に写生の心が弾まない。やはり、実景に対する感動より言葉への愛が上回るのは一因と思う。課題だ。
桜蘂降るパーカーを脱ぎ再び 若洲至
桜は最後、花弁が散って赤い蘂だけが残り、それが更に散るところ、地面に散らばる情景までが俳句の春である。(初夏になれば「葉桜」という季語もある。なかなかに引っ張る。)そんな花期の終盤にある繊細な時の流れそのもの、それが「桜蘂降る」の本意の究極ではないかと私は考えている。
掲句はパーカーから連想する軽やかな時間性が良い。素材といい、羽織りそうなシーンといい、カジュアルな「サッと」「パッと」した空気感、そこへ桜蘂の散る微かな時の流れが重なりつつ繰り返されるが、その連続性の、終わりが見えるところに妙味がある。
余談。サムネイルや挿入用の写真を選ぶのが好きなのだが、無料の範囲で探すと、桜蘂の散る写真が極端に少なくて苦労した。きっとニーズが少ないのだろう。俳句を始めて良かったなぁと思う理由は、自身では気がつくことができなかった桜蘂降る時間のように、さまざまな時間を知ったこと、などであったりもする。
若洲の場合(出題者)
日本古来の文化で「花」といえば、基本的には桜のことである。それくらいに桜の存在感は大きい。日本に住む人々は桜のありとあらゆる様態を観察し、それを捕まえて話の種にしてきた。その最たるものが「桜蘂降る」だろう。桜が散り、1週間から2週間くらい経つと、花びらより濃い赤色をした細長いものが降ってくる。この季語の示す情景はこれであり、降っているものが「桜蘂」である。
ある季語を使ったり説明したりする時、私は色合いやトーン、テクスチャに言及することが多いのだが、桜蘂降るの場合は濃い赤色(桜蘂の色)のザラザラした感じを思う。付随するフレーズが同系のトーンであれば、マリアージュが成功していると思える。
桜蘂降る唇よりも遠き口 上原温泉
唇と口の違いを特に意識するのは、どんなときだろう。そして、口を遠いと思う感覚は、どんなシチュエーションで起こりうるだろうか。筆者は表現から、これは恋愛関係にある2人のうち片方の心情を詠んだもので、まだ付き合いの浅い時期なのではないかと推測した。相手に迫りきれないもどかしさ、はねつけられるかもしれない怖さ。そんなザラザラした気持ちを抱えた作者(と恐らくその相手もいる)の頭上に桜蘂が降っているとき、筆者には「トーンが揃っているなぁ」と感じられるのだ。なお、トーンやテクスチャが万人に共通する感覚ではないことは承知している。加えて筆者の感覚的には、同じトーンやテクスチャを持つ他の季語もあるので、季語同士を完全に区別できるものにもなりにくいと自認している。(この段落については参考程度に読んでいただければと思う。)
最後に、上原のほうから観念の話を委託されたのでこの項目の中で回収しておく。俳句では使える音数が17音とかなり限られている。この性質を活かしながら、多くの人に受け入れられる詩として成立させるためには、情景や作者の感情をこの中に限られた言葉で伝える技術が必要になる。では情景と感情、共感可能なレベルまで伝えるにあたってはどちらが難しいか。感情のタイプが千差万別であることを考えれば、感情のほうが難しいと言って差し支えないだろう。だから特に初心者のうちは、俳句で抽象(感情や観念を含む)を扱うことは敬遠されるのだろうと思う。
とはいえ、全く歓迎されないということでもない。下記などは一定以上の評価を受けている有名な句である。
降る雪や明治は遠くなりにけり 中村草田男
この句は昭和6 (1931) 年に作られたものだが、この時点で明治最終年から19年が経過している。大正を越えて2元号前になった明治は、この時代の多くの人にとって「遠くなってしまったなあ」と思うものになっていたのだろう。そして以降の時代の人にもその感慨は伝わるだろう。必要十分な言葉で時の流れを切り取ったことにより、この句は大衆性を獲得したのだ。他に感情が大衆性を帯びて評価される例としては、和歌における恋慕の情や離別の悲しみなどが挙げられるだろう。
しかしその他の有名な俳人の句を見回しても、抽象的なものを最大のテーマとしている作品は決して多くはない。それだけに、観念や感情などを取り扱うことは、俳句の世界で一種のリスクとして捉えられている節がある、というのが上原の認識であろう。
次回は〈上蔟〉(2023/06/02公開予定)です
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