上原の場合(回答者)
愛鳥週間は、アメリカ合衆国のBird Dayに倣って戦後の日本で設立され、現在は毎年5月10日から同月16日までの1週間が期間と定められている。一般にはさほど人口に膾炙していない行事であり、または季語であるように思う。目的は鳥類保護の啓蒙で、開催時期が5月であることの意味よりも、設立の理念のほうに重心がある。環境保全や動物愛護は、人間の生活が安定したその余裕の上に立脚し得るものであるから、焼野原からの再出発だった設立当時の日本社会には、積極的に啓蒙していかないと後手に回されてしまう状況や空気があったのだろう。
そんなわけで、愛鳥週間は歳時記の「行事」の項目に掲載されている。そう決まっているのだから初夏の間に詠みなさいねということである。何よりも季感を大事にする季語の観点から考えれば、口にするだけでも鳥好きの目が潤んでしまう愛鳥と夏との因果、「動かなさ」について、絶対に夏でなくてはならないってことはないわよねぇ、鳥には冬の存在感だってあるしねぇと言いたくなってしまうのは、「愛鳥」という情緒極まる言葉に筆者が冷静さを少し失うからである。なお愛鳥家であることは、ゑひのメンバー2人の数少ない共通点のひとつである。
愛鳥週間の句は、具体的な鳥について描くケースが少なくない気がする。筆者が受けた教えによればそれは理論上「(季語と内容が)近過ぎる」と悪い意味で指摘される典型に当てはまるはずなのだが、行事の季語であるのに、その行事をあまねく人々がご存知なわけではない=季語を共通認識とする力が弱い、という残念な実際があるため、どうしても実体の再現性を借りて句を補完したくなってしまうのかもしれない。守ってやらねばならない言葉を季語にするっておかしかないか? とはまたしても思うのだけれども、繰り返すと「愛鳥週間」はすなわち啓蒙活動の期間なので、敢えて言っていくことに意味があり、季語化するにも恣意的なんだからそれを追及しても仕方がないでしょ大人でしょ、とも思い直してみる。
愛鳥週間や土鳩のアンダンテ 若洲至
【アンダンテ】
ー広辞苑 第六版ー
速度標語。「歩くくらいの速さで」「ゆるやかに」の意。モデラートとアダージョとの中間。
愛鳥と土鳩。これが、俳句特有の言い方としての「近い」だ。「愛鳥週間 “だから” 土鳩がテケテケ歩いている」という意味に含まれる“ だから ” のニュアンスが順当過ぎて面白くないよね、あるいは、「愛鳥週間」で鳥という言葉を一回出したから、そこへまた鳥(土鳩)を重ねると句がうるさくなるよね、あるいは、発想を鳥以外へ飛ばしたほうがカッコ良くなるよね、といった考え方がその根底にはある。
(念のため横入りして断っておくと、俳句は、作り方においても読み方においても、流派みたいなものがあるし諸説紛々であるし、何よりこの連載の目的は今後も含めて正解を標榜することではないので、我流の論調であることをお許し願いたい。)
俳句を始めて間もない方にとって、この句は意味を汲み取りやすい。言葉の「近さ」は「わかりやすさ」として歓迎される。さらに「アンダンテ」という音楽用語を俳句で目にする新鮮さに、おっ! そこが面白いんだな、という見当もつけやすい。よってこの句はウケやすい。
やがて、俳句を始めてしばらく経つと、従って経験も知識も増えてきて、気の利いた言葉のあっせんを句会で目にしても驚くほど感動しなくなってくる。要は慣れる。また「近い」ということ、そのわかりやすさが句を凡庸にしかねないことがわかってくる。反動で「近くない」句を尊び、発想を飛躍させるほうへ心が向き始める。そんな時期に差し掛かった参加者がもしこの句を句会で見かけたら、自信をもってスルーするだろう。
筆者の場合は当初より、1句の中の言葉を限界まで引き離すことを楽しむ傾向があった。だから個人的には「近さ」に悩むことは少なく、逆に、突飛過ぎるぞ~おーい戻って来ーい、と言われることのほうが多かった。このあたりは体質的なものにつき如何ともし難く、嗜好の偏向は自覚しているつもりだから、できるだけ自分ではなく、自分が知っているエリアで「標準とされる」考えに軸足を置きながら、ここまでを書いてみた。
そしてそんな筆者には最近、ちょっとした自負と共につぶやきたいことがある。それは、
「近い」って、面白いのではないか。
という発見についてである。なぜ自負と共にかというと、「遠すぎる俳句詠み」である上原だから気づけたんじゃない? と自惚れたからだ。やや語弊はあって、近さが陳腐さにつながる危険が無いと言っているわけではない。作句の力がある程度のレベルに達するまでは、そんなこと考えないほうがいい。ただ若洲の句を何度も読み返すうちに、その近さが何とも可笑しくて仕方がなくなってしまったのである。
まず「愛鳥週間や」。申し上げてきたとおりの超弱季語+切れ字の「や」。文法的には詠嘆を表す間投助詞の「や」。
【詠嘆・詠×歎】
ー広辞苑 第六版ー
①声を長く引いて歌うこと。
②声に出して感嘆すること。
③感嘆すること。感嘆。
つまり作中主体は、あぁ愛鳥週間だなぁ~と、ド頭から感嘆しているわけなのだが、実にピンとこない。なぜなら読み手の季語認識が心許ないため、筆者のように鳥が何となく好きなだけで、日本野鳥の会の会員というほどでもない者にとっては、あぁ愛鳥週間だなぁ~→ あぁほんとそうですねぇ~、という具合にはイマイチ乗っていかないのである。
次に「土鳩」。都市部の生活者にとって、カラスと並ぶ身近な存在であるこの鳥の選択、季語の補完は有り難い。関係者以外にとっては若干ふんわりしてしまう行事を、実感に引きつけて読もうという気にさせてくれる。が。それはそうなのだが、季語への乗れなさから入ったネガティヴ思考回路には、ドバトという濁音の響きが、非常にざらついたものに聞こえてしまう。さらに、思い起こせば人によっては苦手なあの姿形、というか質感。庇護したくなる華奢さも足りず、やたらといるせいで神秘的にも感じない。結論、土鳩は筆者にとって、あんまり詩的じゃない。そんな土鳩が歩くさまを、作者は「アンダンテ」という音楽用語で表現した。
アンダンテは、メトロノーム記号でいうとテンポ70前後。ピアノの練習用の動画を見つけたのでまずは聴いていただけるだろうか。
アンダンテの名曲といえば、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの「フルートと管弦楽のためのアンダンテ ハ長調 Kv.315」などが有名。ベルリンフィルの首席フルート奏者、エマニュエル・パユ氏の演奏を、できればこれも土鳩を思い浮かべながら聴いてみて欲しい。
そのうえでもう一度、句を読んでいただきたい。
愛鳥週間や土鳩のアンダンテ 若洲至
いかがだろうか。真面目な気持ちで鑑賞し考察してきた筆者には、この句が実に確信犯的であり、人を喰っているように読めてきたのであるが。そもそもが「愛鳥週間や~」だもの。若洲、これはスっとぼけた揶揄なのか?
若洲作品の、誰が読んでもわかりやすいという特徴については、今後も毎回のように触れることになるだろうが、見え方のわりには中身の手が込んでいて、たまに極小の「棘」を句の中に忍ばせていることがある。今回のお題であった「季語としての愛鳥週間」にはメンバー双方ともに不満を抱いたようだが、対抗措置として、上原は作り方において呪縛から逃れようとした。若洲は勇敢にも正しく作るという正面突破によって、愛鳥週間をというよりも、季語という大きな相手を、プスッと、刺した。誰にも気づかれないほど小さく。その解決方法の違いや、若洲のスーンとした作りよう、筆者にはそれが可笑しくて仕方ないのである。
今後、若洲の隠し持つ、ちっちゃな棘を見つけて笑いたい方がいらっしゃいましたら、「真面目な気持ちで」「慎重に」作品を読むのがコツです。なおすべては筆者の見解に過ぎず、作者の承認は得ておりません。
若洲の場合(出題者)
〈一般的立場からの考察〉
行事としての「~週間」にはいろいろなものがあるが、その中での愛鳥週間の印象は、かなり薄い方に入るような気がする。例えば、「春の全国交通安全運動」とか「読書週間」とか、生活の中に少しだけ映り込む週間もあるが、今が愛鳥週間だなあと思うことは、正直あまりない。小中学生の描いた可愛らしく美しいポスターが張り出されているのを、数年に1回くらい見たことがある程度の印象だ。
他に「~週間」がいろいろある中でも愛鳥週間の印象が薄弱なのは、多分根拠が薄いからだろう。例えば「防災週間」であれば、これが関東大震災の前後であろうことには想像が至るかもしれないし、「読書週間」なら読書の秋の話だろうな、と思えるかもしれない。一方愛鳥週間は、どうも海外の人が制定した日付が元になっているらしい。そのうえ鳥は日常の中に常にいて、具体的に何をするということも特に定まっていないため、多くの人に取っては暦と結びつく行事というイメージが湧きにくい。考えてみれば当然だ。
後述するが、鳥が好きということと、愛鳥週間を知っているということも必ずしもリンクしない。私の友人にも鳥好きが数人思い当たるが、「愛鳥週間って……」といきなり話しかけたら、何の話だっけ? と聞き返されるに違いない。
多くの感慨をこの1週間に抱くことは、故に想像しにくい。
〈愛鳥的立場からの考察〉
鳥の愛で方には人によっていろいろあるが、愛鳥週間は自然に親しむという大きな目標に向けたステップのようにして設けられた行事であるようなので、鳥を愛でることはどうやら至上命題ではないらしい。
鳥が好きな人は、どんなときでも鳥が好きな気がする。苦手な種類の鳥くらいはもしかするといるかもしれないが、街を歩いていてもシジュウカラやスズメが無意識に目につくし、海外に行くと鮮やかな鳥に異国情緒を感じたりする。そんなものだから、「愛鳥週間」という言葉は、あんまりしっくり来ない感じもする。
縁あって筆者は最近、日本野鳥の会の方々と関わる機会があった。その方々の生活の中には常に鳥がいるのだろう。逃げてしまったフクロウの見つけ方を考えたり、巣立ち雛の心配をしたりしながら日々を過ごしている。会の地方組織の方々には、愛鳥週間をひとつのプロモーション活動と捉えている向きもあるようだが、愛鳥週間だから特別な何かがあるということは、それ以上はなかった。それに、毎年やって来る愛鳥週間を経て、さらに鳥への愛が深まるということも、残念ながらないだろう。
多くの感慨をこの1週間に抱くことは、ゆえに想像しにくい。
〈俳句的立場からの考察〉
鳥にまつわる季語は季節をまたいでいろいろあるが、具体的な鳥の名だけでなく、少し抽象的というか、実体のない言葉もある。例えば春の季語「鳥雲に入る」は、日本で越冬した白鳥などが北へ戻っていく様子を、少し神秘的な感覚で捉えた季語だ。秋に渡ってくる鳥を捉えた「小鳥来る」も、具体的な鳥の様子を描くというより、待ち遠しい気分に喜ばしい気持ちを重ね合わせた印象だ。
その中でいうと「愛鳥週間」は、初夏の季節感を伴うので幾分具体的な感じがする。とはいえ、なにか具体的なものが見えてくるというわけでもない。どちらかというと、鳥が軽やかに飛び回る時期を示す季語(時候の季語)のような、背景指定の要素が強い季語のような気がする。ゆえに、俳句に詠まれるときには、何らかの鳥的要素を付加することもできる。
愛鳥週間や土鳩のアンダンテ 若洲至
独立語3つで構成された句なので言葉足らずの印象が拭えないが、「アンダンテ(音楽用語、歩くような速さで)の尺度を人間から解放できたのは、この季語があったからであると思う。
一方で、鳥的要素を追加すると鳥要素が2つになり、どちらかが多いとか余計だと感じられる懸念もかなりの程度ある。
ときめきの短くバードウィークかな 上原温泉
そんな懸念を恐らく考えながら作られたのがこの句で、小鳥のちょこまかした可愛らしい動きや、動き回る野鳥を思い通りには愛でることができなくて、歯がゆいばかりの作者の気持ちを感じることができるのではないか。歳時記の俳句には、鳥要素が複数あるものが多かったが、1つで成り立つのであればそのほうが個人的には良い気がする。
日常の中に俳句で使う独特の暦があり、それを使っていることにささやかな喜びを感じる俳人にとっては、この季語は魅力的に映る。ただ、〈一般的立場からの考察〉で述べた通り、その印象は、どうにも全体として希薄だ。
残念ながら「愛鳥週間」のような、読者にとって印象を持ちにくい季語を用いた名句は、ゆえに創造しにくい。
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