こちらの記事は、月刊 俳句ゑひ 水無月(6月)号の『贈る』(作:上原温泉)を、若洲至が鑑賞したものです。まずは下の本編、及び〈前編〉〈中編〉をご覧ください!
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オノマトペへの着目(最終回)
前回は、オノマトペの入っている2句に注目し、その鑑賞を行いました。今回も引き続き進めていきますが、難易度がちょっとアップしますよ。
「ぱつと」の調整力
犬困る噴水ぱつと消えたれば
こちらも意味は比較的わかりやすいですかね。おそらくは、急に水が止まったのを見て、硬直したり首を傾げたりした犬の様子を捉えたのだと考えられるでしょう。
犬が困っているというのは作者の把握であって独断以外の何者でもないのですが、それでも犬と噴水の風景がわかるような気がするのは、オノマトペ「ぱつと」の効果だと考えられます。「ぱつと」を使わないもので考えてみましょう。
犬困る噴水がいま消えたれば
動作全体のスピード感が失われ、瞬間の息を呑む(言い過ぎか)感じが全くしなくなりました。さらに言うと「噴水そのものが消えちゃった!?」みたいにも私には思えます。そう、実は「噴水が消える」という言い方には無理があるのです。それを調整し、さらに情景を活写していた、と感じさせていたのが「ぱつと」だったのです。
時間軸をオノマトペで区切ったことで、現実的に噴水が消えないことを読者の念頭に置かせ、さらに句全体に勢いを付けて、いきいきとした風景に仕立てたのです。
「ぐにやり」の違和感
夏ぐにやりすつぽんの目は水の辺を
さて、この章最大の問題作がこちら。難易度が高いので最後に持ってきました。
そのまま解釈すると「夏がぐにゃっと曲がっている」「すっぽんの目が水のあたりを(見回している)」ということになりますが、まず「夏がぐにゃっと曲がっている」ってなんだ、という話です。
この句のオノマトペには、今までに挙げたような明確な利用の効果がありません。「ぐんぐん」のような情報のぼかしも、「ぱつと」にあった時間の限定効果もないのです。強いて言えば「ばらばらに」で見られた動詞の省略の効果があるのかもしれませんが(「曲がる」などを補うことはできるため)、それでは「夏がなぜ/夏の何が曲がっているのか」という疑問そのものは解決しません。
最大限考えてみるとすれば、「すつぽん」といういきものが後ろにいることから、その様子が一つのヒントになるでしょう。首のぐにゃっと曲がっている感じ、甲羅干ししている石の上で4本の足や尻尾が曲がっている様子などが思い浮かぶと思います。ここにイメージの由来を求めることは自然だと思いますが、今回はあくまで「夏がぐにゃり」ですから、さらなる検討が必要です。
そもそも夏は概念ですから、曲がるものではありません。しかし最近の酷暑を踏まえると、厳しい夏の時期には、硬いものでも柔らかくなってしまうようなことがあることを思い出すかもしれません。例えばアスファルトが緩んでしまったり、線路が歪んでしまったりすることはありますね。こうした現象のイメージを、「夏ぐにやり」に感じることはできるかもしれません。
ただ、一般的にこのイメージが共有されうるのか、というと、正直筆者には自信がありません。夏の基本的イメージは簡単に言えば「生命の隆盛」ですから、こうした無機質な物質あるいは精神的な「萎え」の感覚は、「夏」という大きな季語だけでは共通認識にならないことが多いと思います。残念ながらこのオノマトペは、個人的な感覚・経験の形容として受け止められ、大衆的な感覚を言い得たものとして、句の評価の向上に寄与することはないように感じます。
個人の感覚を、理解を得られる形で示すことができるか。句単体でその努力をするべき、ということでは必ずしもありませんが、今後の上原の課題の一つとして言及しておきたいと思います。
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