2023年3月25日21時、上原と若洲の二人は、それぞれ自宅からオンライン会議システムZoomに参加した。紆余曲折あって、6時間ほど話し込んだ。これをゑひ[酔]のスタートということにしている。この「酔人問答」シリーズはその記録であり、今回はその3回目である。
話し手
ゑひのメンバーは次の通りです。上の名前だけでもぜひ覚えてください。たまたまですが、どちらも東京23区内にある地名であることは共通しています。
上原温泉(うえはら・ゆみ)
割と規模の大きな美術展だけに、相当目立っていなかった小さな絵に惹かれ、帰りにミュージアムショップで購入したそのレプリカを持っている。作者を知らず調べることもせず、なんとなく私室の書棚の端に飾ったまま時は流れた。ある日のこと、書店で平積みにされた本に目が釘付けになったのは、その小さな絵が表紙絵になっていたから。自著の表紙絵に選ぶぐらいだから、作者もこの絵がとても好きなのだろう。本屋だけに叫ぶわけにもいかず、心中で盛り上がってしまった思い出。
https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-83587-7
若洲至(わかす・いたり)
現代美術に関心があり、ここ数年で展覧会によく行くようになった。関心の発端は、幼少期に見た宮島達男の《それは変化し続ける それはあらゆるものと関係を結ぶ それは永遠に続く (1998)》にある。2023年の3月と4月には、同じ日に美術館を数軒はしごするなど、かなりの高頻度で美術館を訪れた。好きな美術館は東京・上野の「上野の森美術館」、同じく京橋の「アーティゾン美術館」。
エゴン・シーレを巡って
若洲 そういえば先日、東京都美術館で開催中の「エゴン・シーレ展」に行きました。ほぼ事前情報なしで行ったのですが、展覧会としてはきれいな構成でわかりやすかったです。作家の知識も十分盛り込まれていましたし、その時代の作家を取り巻く芸術の世界のありさまや社会の雰囲気も感じられて、勉強になりました。
上原 ちょうどやっていますよね。シーレの絵についてはどう思われました?
若洲 正直に言えば好みの作風ではないですが(汗)、でも28歳で他界するまでの間にも作風に紆余曲折があったようで、それでいて若い時代の作品にもちゃんと思想や歴史が織り込まれていて驚きました。これが「天才」と言われる理由なんだ、と納得できました。
上原 若洲さんにシーレ好きなイメージは沸かないですね(苦笑)。私のほうはエゴン・シーレに心酔していた時期があるんですよね。
若洲 逆に私は上原さんがシーレをお好きなの、すごく納得ですね。内面にこう、入り込んでいく系というか。以前お好きだと聞いたことがある、太宰治とかに近い匂いを感じますよね。
上原 言えてます! その頃は絵の中に顔を突っ込みたいくらい好きでした。シーレも太宰もそのほかも、好みの芸術家はなぜかみな夭折か自死傾向……。
若洲 人は自分のメンタリティに合ったものを好きになると思うのですが、上原さんのその頃は、そういうものを求めるメンタリティだったんでしょうね。生きながらえてくださって良かったです(笑)。
上原 彼らの熱量って、こちらが前提知識を持っていなくてもダイレクトに迫ってくるじゃないですか。だから最短距離で好きに至る。逆に、この書物はラテン語勉強しないと奥深さに触れられません、みたいなのはこちらの努力も必要なので。楽できないものは守備範囲外でした(笑)。
若洲 ちなみに今はシーレとかどう見えているんですか?
上原 いつの時点から変わったんでしょうね……シーレも太宰も作品としては面白いけどキャラは嫌い、みたいなのが今の季節です。
若洲 自分は芸術家をキャラで見たことはなかった(笑)。
上原 そんな流れから言うと、東京都内の美術館にアウトサイダーアート展を見に行った時、作品のエネルギーに当てられ、その日の体のリズムが変わってしまったことがありました。そういう、理屈を超えたもの、霊的な次元で誰かに届くようなものを作れたらいいなぁとは今でも思います。
若洲 私はけっこう理屈でものを見ているのですが、上原さんはそこを越えたものを志向しているんですね。ゑひ[酔]の2人は物事の捉え方が違うので、作品を評価し合うときに、互いの届かなさが出てくるかもしれませんね。
上原 あぁそれなら、私については以前よりは包容力が付いたと思うので。今のタイミングだから「ゑひ[酔]」を始めることができたのだと思いますし。それに、いかに分かり合えるかがすべてではないなと考えるようにもなりました。分かり合って、重なり過ぎると、そのうち点になって、2人だけ大満足しながら、最終的に消えてしまうじゃないですか(笑)。分かり合えない広がりをユニットとしての強みにしていけたらよいですよね。たとえば、若洲さんが深淵なる意味を孕んだ写真を撮ってきて見せてくださったとしても、それを私が汲み取れないことも多いでしょうしその逆もしかり、そこは想定しつつ、個×個になるような活動にしたいと思っています。
短歌と俳句
若洲 われわれ「千返万歌」というコーナーのために短歌を作り溜めていますけど、最近の上原さんの短歌は面白くなってきていると個人的には感じています。
上原 俳句の方は通常運転中ですが、先ほど説明したような自身のアウトサイダー的側面のほうは短歌で活かせるかもしれないとは感じています。そのあたりの使い分けが出来てきたならホッとしますが。知らないとは恐ろしいもので、短歌についてはまだ「なにコレ楽し~い!」ぐらいの軽薄さで作ってます(笑)。
若洲 俳句は17音、短歌は31音と使える音数が増えるだけで、表現できることの幅が結構変わる気がしますよね。その意味で上原さんの棲み分けは正しいと思います。平安時代の和歌にも恋を詠うものなどが多くありますけど、私も作るようになってみて、改めて短歌には、情熱を見える形で込めて良いんだろうなと思うようになりました。現代短歌がどうかはちょっとわからないですが。
上原 俳句を始めた頃の私は、俳句の方でアウトサイダー的な試みをやろうとしていて、それはことごとく失敗しました(苦笑)。何が問題なのか当時は全くわかっていなかった。短歌を並行してやることで両ジャンルに対して客観的になり、俳句も少しは安定するようになったかもしれません。表現において錯乱したくなったときは、俳句はやめとこう、短歌を作ろう、と(笑)。
若洲 俳句はシンプルに情景を描写することが好まれる世界だから、感情をあんまり入れ込まないほうがいいと言われることが多いですよね。だからといって気持ちを込めてはいけないというわけでもないんですが。そんな中でこれはぜひお伝えしたいと思っていたのですが、俳句においても、上原さんには自己の精神世界を忠実に写生する方向で作っていただくのが良いのかな、と。俳句である以上、写生という手法から離れることはできないと思うのですが、17音に自己の世界あるいは世界の自己認識を写生することは、上原さんにしかできませんから。
上原 あぁー。自身の方向性が少し見えた気がします。しかし技術がまだまだ足りない。精進あるのみですね。
酔人問答④〈ゑひ[酔]の決意〉につづく
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