「上原らしさ」を探しに
さてようやくこの短歌記録も、ゑひが始動した4月に追いつきました。ゑひが始まってしまったら日々の執筆に追われることは目に見えていたので、必死で作り溜めたそれまででした。
2023年4月11日、初めてのオンライン短歌会議。昨年11月からの歌を全て点検したらそれなりのボリュームで、一生終わらない会議かと思う。多くの自作はその時点でボツです、さようなら~。
どうやら激しい恋心を歌い上げる作風にはなっていかないらしいと気が付いた話は【ゼロから始める短歌記録〈Vol.2 〉】に。何でもそうなのでしょうが、好きなものと似合うものは違いますね。さて、では私らしいとは何?
ペンギンは森に暮らしていたのです夜明けの夢に体の濡れて
短歌会議の選考で生き残った歌のひとつです。当時はわりと気に入ってました。今となれば、なんだかなーですが、クオリティを気にし出すと一文字も書き進めることができなくなるので、以降は開き直ることにします。
実はこういう歌を作っている時がいちばん楽しいです。こういう歌とは、動物を詠む歌です。長らく無自覚だったのですが、俳句も動物を詠んだ句が多いと人様から指摘され、その後は自覚的に作るようになって、するとやっぱりとっても楽しい。
犬も猫も鳥も兎もハムスターも亀もザリガニも熱帯魚もカメレオンも山椒魚も、私は飼ったことがありません。生活する中で動物との触れ合いは皆無に近く、それを淋しく思ったことすらないのに、ここへきての動物愛。我ながら不思議に感じて原因を探ってみました。
思い当たるのは幼少時、読書を中心とした文化体験です。はじまりはブルーナの絵本でした。よく覚えてはいませんけど(笑)。それはウサギの女の子の物語。ミッフィーですね。それからトーベ・ヤンソンのムーミンシリーズ。小説を読むことになる後年まで、ムーミンのことを河馬の男の子だと思い込んでいたので、これも該当としました。 新美南吉の『ごんぎつね』『手袋を買いに』などもそうです。そのほか各国の寓話や昔話に、動物を心あるものに見立てて展開する話は多いです。
極めつけは『シートン動物記』で、これにはハマり、小学校の図書室に通って繰り返し読みました。作者のアーネスト・トンプソン・シートンはイギリス出身の博物学者であり画家でもあった人で、自作の挿絵も100点以上書いています。シートンの動物記は、博物学者としての実体験を基にして書かれているので、どの物語にも強度があり、動物たちの、まるで人間のような情愛が、絵空事にならないのです。なかでも発表時の評判が高かったとされるのが『狼王ロボ』。子ども上原は、泣きながら読みました。
そんなわけで、図鑑より児童文学を好み、そのエッセンスを毎日のように浴びていたので。物語の中の動物たちは、実体を得ぬまま昇華され、今や謎の動物愛となって私から噴き出しているのかもしれません。
禁じられた見立て
玄関のドアを開ければ夜明けより其処に待ちたる首傾げ鳥
短歌記録なのに、また俳句の話をしてしまいますが、それは、この歌で用いたような「見立て」に、俳句を作る上では悩まされたからです。この歌の見立てとは、人間に対して使われる言葉「待つ」を、鳥に対して用いていることを指します。上述のような読書傾向から受けた影響により、私にとって見立ては、息を吸って吐くと同じく、ごく当たり前の日常行為でした。動物のみならず、ほかの有機物・無機物、何に対しても見立てが働いてしまうのは、もはや体質といってもいい。
そんな人間が俳句を始めたのですから、当初は何の疑問も抱かず、見立て祭です。つまり、太陽が笑ったり、草花の気分が落ち込んだり、鍋が逃げ出したり、するわけですね。ところが俳句において、見立ての句はうまくいかない場合が多いと言われます。特に初心者がやってしまうと、独りよがりや陳腐に陥る可能性が高い。私の初心の頃の句も例外ではありません。この問題、一切の見立ての句を認めないと明言なさる人すらいます。その如何の検証は本稿のテーマではないので控えますが、悩ましいことに名句とされる見立ての句もあるんですよね。ですから答えはいつものようにひとつではないです。いちおう、良き見立ての句をご紹介だけ。
葡萄食ふ一語一語のごとくにて 中村草田男
それでですね。ほぼ見立てによって創造領域が成り立っている私が、見立てを禁じられ、同時に詩的であることを求められる。これには苦しみました。で、ニュートラルにやれるほど器用ではないので、いったん見立てを封印したんです俳句では。
ですから「其処に待ちたる首傾げ鳥」は、それはもうひっさしぶりに、本来の見立て脳を、伸び伸び~っと行使したフレーズです。この歌が出来た時は、かなりのデトックス効果を感じました。自然体でいられるのって、ふつうに快適。ただ今回、上記2首に「夜明け」のブッキングが起きたところは、私の幅の狭さですね。反省。昔、俳句でも「あなたは明け方の句が多い」と言われたことあります。ひどい低血圧なので朝は苦手なのですが、なぜかそうなる。自分について判然としないことは多いです。
入選のよろこび
我の埋めし球根全て掘り起こす球根掘りの霊と対談
4月は、とても励まされる出来事がありました。この歌を東直子さんの短歌投稿欄に送ったら、まさかの特選に!! とりわけ嬉しく感じたのは、俳句だったらウケないこと必定の、空想力を働かせることで作った歌だったからです。1人で作り始めたので、何もかもが不安だったのですが、この作り方や方向性でも大丈夫なんだ~と、少しホッとすることができました。投稿欄は独学の者にとって本当に有り難いです。東直子さん、ありがとうございます。
ところでまたしても俳句……この “空想” が、わりと嫌われます。実物。実景。今ここ。リアル。それがなければ「句が弱い」と言われてしまうので。
あいにく、見立てとセットで趣味の “空想” に日々を費やす子どもでした。今さら創作活動をしようとするのは、そんな子ども時代の自分と繋がろうとしているからともいえます。空想ばかりしていると生きていけない感じになるのだなーとわかる大人になって以降は、休眠中の精神活動ではありましたが。私が俳句を作ることは、その残り火の鎮火、みたいなことになったのでした。
今春は、そんな空想癖を取り戻そうとしていたのです。短歌を作るようになったから。しかし住まないと荒れ果てる家のように、空想の筋力も鍛えなければあっさりと落ちていきます。実際、そうとう落ちてました。ですから作り溜めた歌も、まるっと虚構によるものは少ないです。間延びした俳句みたいな、短い日記みたいな、しょうもない歌ばかりが出来て。
子どもの空想を高度な幻想の域まで引き上げるには、広く確かな知識と、辞書みたいな質量の言葉の器を身の内に持っていないければ立ちゆかない。それがわかりました。実景に頼らないでゼロから作り上げるとは、そういうことなのだと思います。足りない。あまりにも、私は足りてないです。
川野芽生『Lilith』との出合い
ちょうどその頃、川野芽生という歌人を知りました。歌集『Lilith』は主題を変えた3部構成で、それぞれの章に違う魅力があります。今回の話に繋がる Ⅱ章「out of」は、空想に立脚した詩の構築が目を引き、感銘を受けました。
名を呼ばれ城門へ向きなほるとき馬なる下半身があらがふ
こころとは異土のこと 尾を喪ひし人魚を夜の森に放てよ
溜息が出ますね。この境地。まさに私が目指したかった世界観のひとつではあります。しかし拝読したことで、むしろ冷静になりました。この境地へ自分は行き着けないとわかる。いや努力すればいいんでないの? とかそういう問題ではもはやなくて、資質の違いです。好きと似合うは違う理論の再びです。空想好きの子どもだったのは遥か昔のこと、すでに濁った現世に一定染まった自身を自覚しました。今となっての私の幻想は、浸かるにしても足湯程度が限界かもしれないです。
でもね。
『Lilith』は、 Ⅲ章「the world」の存在が大きいと思っています。作者の生きづらそうな魂がそこにあったから。絢爛な表現は、繰り返し読むうちに目が慣れますが、主題の切実さに慣れることはありません。表現の襞をかき分けたところ、作者の核に触れると、私の心はいつまでも震えました。
だから、どのような作風であれ、深く届くのは「主題」なのだと思いました。『Lilith』の言葉の綺羅めきは、逆にそれを私に教えてくれます。この頃からだんだん、俳句で出来なかったことをするための反動みたいな、不純な動機からではなく(笑)、もっとシンプル且つ真摯な気持ちを以て、短歌と向き合うようになっていきました。『Lilith』に出合ったお蔭ですね。
上原の模索は続きます。ではまたお会いしましょう。
harassとは猟犬をけしかける声その鹿がつかれはてて死ぬまで
川野芽生
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