こちらの記事は、月刊 俳句ゑひ 文月(7月)号の『いいね』(作:上原温泉)を、若洲至が鑑賞したものです。まずは下の本編をご覧ください!
現在ゑひ[酔]では、大きく分けると「月刊俳句ゑひ」と「千返万歌」という2つの企画が動いています。8月以降はさらに企画を充実させていきたいと思っているところなのですが、要は俳句と短歌の2つがゑひ[酔]の柱を作っています。俳句と短歌にはいわば「お隣さん」のような、リンクするようなしないような感じの関係性がありますが、完全には一緒ではないので、作るときもちょっと違う頭の使い方になります。
ただ、ちょっと違うということは、近いところもたくさんあるということです。筆者は、両者に共通する特徴の1つに過去作品との関連性を重視する点があると考えています。今月はまず、文月号の上原の作品と過去作品などの関連性を考えていくことにしたいと思います。
なお、過去作品と言っても、上原自身のものであることは必ずしもありません。幅広く、さまざまな作者の俳句・短歌、さらには世間一般の文芸作品・歌なども捉えながら、筆者独自の印象を書いていくことにします。
過去の作品とのつながり
はじめに、上原が過去に発表した作品と、濃い関連がありそうな作品について見てみます。
同じ季語の俳句――螢袋
石壁に螢袋が生えてゐる
季語は螢袋という花の名前です。詳しい説明はこちらのページをご覧ください。
一見するとこの俳句が表している内容は、非常にシンプルです。ただ、ホタルブクロという植物の特性――開けた場所を好むなど――を知っている方にとっては、石壁に生えている珍しさについて言及したもののように感じられるかもしれません。真意はわかりませんが、どこか一か所に力点を置くような読みぶりでないことは確かです。
力点でないにしても、「石壁」と「螢袋」はこの作品の大切なポイントです。うち「螢袋」は、上原の過去作にもあったので見てみます。
うろうろと螢袋を出て入る
月刊 俳句ゑひ 皐月(5月)号より
こちらのページでこの句の読み解きについても解説していますが、要点は次のとおりです。
(前略)
上原の「形」【月刊 俳句ゑひ 皐月(5月)号 『形から』を読む〈後編〉】より
この句の詠み手は間違いなく上原なのですが、私は上原が昆虫くらいのサイズになってみたつもりで詠んだ句だと解釈してみました。そうすると、花の周りを行き交う蟻や、蜜を探す蜂(実はどちらも夏の季語)のような目線が感じられてこないでしょうか? いわば生き物を観察した目ではなく、「生き物に成り代わる目」とでも表現できるものです。
(後略)
「うろうろと」の俳句と、文月号の「石壁に」の句の大きな違いは、同じ素材を用いていながらも、詠み手の視点が虫目線から人目線になっていることです。
上原の俳句には、動植物がかなり多く登場します。文月号でも、20句中実に14句に動植物の名前が含まれていますが、視点そのものが人間以外に移ってしまうのが上原の特徴です。しかし今回の俳句では、俳人として通常運転の視点で記述がなされています。俳句をやっていて、過去に詠んだことのあるものを詠むことは当然ありますが、どちらかと言えば文月号の方が「普通」です。新しい作品であるのに、なぜこちらが普通の側に戻っているのか、筆者の考察はこの文章の最後の方でしたいと思います。
形の類似――対句✕中間切れ
透きとほる氷菓透き通らるるからだ
続いてはこちらの句に関して。
情景としては、作者が氷菓を目の前にして、食べているさまを思い浮かべれば良いでしょう。もちろん季語としての「氷菓」には、ソフトクリームなども含みますが、この句の中での氷菓は、透き通るもの、かき氷などを想像するのが良いと思います。
その意味では、氷菓が透き通るのは順当です。しかしその「行き先」であるからだが「透き通られる」という受け身で認識されることは一般的ではありません。とても新しい切り口だと感じます。
この俳句を形から捉えると、「中間切れ」という形式、及び「対句」という表現技法を使っていると説明できます。俳句の最初の5音を「上五」、真ん中の7音を「中七」、最後の5音を「下五」と言いますが、うち中七に意味上の切れ目があるものを中間切れと呼びます。今回の場合は意味の切れ目が「透きとほる氷菓/透き通らるるからだ」、上五・中七・下五の音の切れ目が「透きとほる・氷菓透き通・らるるからだ」にあるために、そう判断できるわけです。
さらに、意味上の前半(透きとほる氷菓)と後半(透き通らるるからだ)には、主体の逆転を体言止めで言い表したフレーズが並んでいます。ここから醸し出される雰囲気に独自性があると考えられ、対句表現を効果的に使っているということができます。
どくだみを抜くどくだみが好きだつた
月刊 俳句ゑひ 水無月(6月)号より
実は、上原の作品を読んでいくと、こうした中間切れ・対句表現の俳句が多く見られることがわかります。最近ですと上に挙げたものがそうです。中七に意味上の切れ目がありますし、前半が作者の動作、後半がその動作に反する作者の心情という点で対句を用いているといっていいでしょう。
一般性の獲得
ここからは、2つの句から考えられることをまとめていきます。
最初に挙げた「螢袋」は、使っている季語が共通していることに着目しました。同じ季語が使われていた場合、2句を並べれば、そこに変化(望ましくは「向上」)があるのかが気になってきます。
5月の句から7月の句になると、より「一般」に近づいているように思われる、というのは先に述べたとおりですが、これはおそらく、俳句における「一般性の獲得」を上原自身が最近のテーマとして捉えているからでしょう。
一般性の獲得とは、つまり多くの読者が理解できるような俳句のプロトコル(約束事)を踏まえることによって、より多くの読者に理解してもらうことができる作品を作る、ということです。
もちろん作者の独自性そのものも重要ではありますが、それだけで作品が成り立つものではありません。作品の構成には、絵画などと同様に技法や固定した視点などが極めて重要です。1句目の場合は、螢袋に対する上原ならではの視点(5月時点)を、あえて7月には一般の方に固定することで、一般的な理解に近づけていこうという努力の方向性を感じます。
類似は個性でありリスク
2句目についての鑑賞の中では、過去作品との技法の類似を指摘しました。
上原の作品の中には中間切れが散見されますが、実は俳句一般で中間切れはそれほど多くありません。むしろ上五で切れたり(初句切れ)、中七の後で切れたり(二句切れ)のケースが多いです。対句や繰り返し的表現にしても、多用される印象は個人的にはないのです。ですから、こうした表現や技法を最大限活かして俳句を作ることができるのは、上原の大きな個性であると言って間違いありません。
しかし表現や技法が作品の中に偏っていると、結果的に作者の幅の狭さを感じさせてしまうことになり、それはそれで問題です。また、たくさん並ばない技法が多くあると、連作などに置いた場合にくどく感じられることもあります。
得意なものと捉えれば間違いなく「個性」である部分も、俳句の中ではときに「リスク」となる。難しいバランスの模索は今後も続くことになりそうです。
今号の上原の作品は、あるところでは一般的なものへの理解を示し、多くの読者への共感を可能とするものになっていると感じました。次回以降の作品の中では自らの作品の特徴をより意識的に捉えていく必要があるのかもしれません。
コメント