こんにちは。上原温泉です。何年か前に、句会終わりの余興で短歌を作ってみようということになり、以降、そんなことが1年に一度ぐらいありました。季語要らなーい、省略いらなーい、好きなようにやっちゃってー、となったその時の解放感は忘れ難いものでしたが、俳句を作るだけでも余暇はそれなりに潰れてしまうので、自発的に短歌を作るまでには至りませんでした。その折に出来た歌(らしきもの)の総合計5~6首? が、「ゑひ」以前の私の短歌経験(らしきもの)のすべてです。
「ゑひ」というユニットは、初めから固い決意と合意の元に始まったわけではありません。当初は多忙な互いの出方を窺いながら「もし、もしもですよ? 仮にですよ? ユニットをやるんだったら~」みたいな枕詞を必ずつけて話し出すのがお約束で。
そのひとつとして短歌の企画を上原が言い出し、しかし実現のためには俳句以上の準備運動が必要と思われ、とにかく始めないことには話にならんと短歌を作り出したことが、ゑひ結成へ向かって動き出す私のきっかけになりました。いや俳句のユニット、なんですけどね。
そのようなわけで本日より、上原温泉の短歌の進捗状況をダラダラ公開していきます。見守ってくださいましたら幸いです。
凩が街の分け目を変えやがるあんたの楊枝だった端くれ
2022年11月15日。記念すべき第一首です。若洲へLINEで送ったので日時と記録が残りました。
昼に見たもの。これって短歌になってるの???
何をもって俳句とするか以上に難しいですね💦
短歌もヘンと言われそう
短歌って屈託を表現して良いイメージなので、いいんじゃないですかね???
短歌はたぶん、それを評価される環境あるのでは???
疑問符と汗マークにまみれたやりとりがLINEに残っています。作ったほうも読まされているほうも検討の仕方がわからないという。
割り箸に高嶺の風の匂ひして麺は底より生まれ来るなり
同時に作った二首めも晒しておきます。ふだん俳句は文語体と旧かな遣いによって作っているのですが、短歌の場合は文体(口語か文語か)をどうしよう? かな遣い(現代仮名遣いか旧かな遣いか)は? と考えあぐねて、試しに両方作ってみようとしたんですね。出来についてはどうか読み流していただきたいですが……
その日は不思議な偶然が起きました。一人で入った飲食店の隣席から、歌が、歌人が、歌集が、と耳に入ってきた内容から察するに、どうやら歌人の方たちと出版社の方たちの打ち合わせらしかった。
あまりにも低い確率の、奇跡的な遭遇にそれは興奮しましたね。「皆さんの隣でいまワタシ、短歌を作ってます! 今日が初日なんです! あ~質問したい~!!!」と、隣で悶えてしまった。これはもう啓示としか思えない。短歌を作ろうとしている方向性でいいよって言ってる……神様が? そう思い込みたくなって、思い込みました。
ときどき断片的に、「伝えたかった言葉」「言えなかった思い」「短歌に救われた私」なんて言葉が聞こえてきます。ちなみに俳句をやっていると、逆を言われることならあります。「伝えることできないよ」とか。「何も言えないよ」とか。あと、俳句に救われたなんて言おうものなら、相手によっては面倒な話し合いになったりしますね。俳句を文学と思うなよ、みたいなね。
俳句は文学ではない、というのはですね。1946年に岩波書店の雑誌『世界』に掲載された、桑原武夫の論文(「第二芸術ー現代俳句についてー」)がありましてね。俳句形式では近代化した現実をもはや表しきれない、俳句は老人や病人の余技に過ぎない、だから学校教育からは締め出すべきとその限界を主張して、俳壇の大論争(俗に「第二芸術論争」という)に発展したっていう、歴史的な経緯がベースにあるのですね。俳人には、遺伝子レベルでそのトラウマと向き合い、戦わざるを得ない側面があって。ですから「俳句に救われた」みたいな発信はそのトラウマに触れるにつき、まだ立ち位置をよく存じ上げない俳人と飲む時などは、取り扱いが慎重になります。
そんなグルーヴで俳句を作ってきた私には、歌人の方々の湿度のある言葉がとても新鮮に聞こえました。え? 言っちゃっていいんですか? みたいな。で、そのまま隣席で考えたんです。すでに俳句という詩形に則るよう叩き込まれてしまっている自分の、今日よりの短歌との付き合い方について。
今さら湿度だけでは行くに行けない、叫ぶようには作れそうもない気はしました。「短歌は年をとると作るのがキツくなってくるけど俳句は大丈夫!」と聞いたことがあるのですが、そういうものですか? まぁそれ言ってたのは俳人の方なので、自己弁護だったのかもしれないけれど。
短歌もいろいろだと思うんですよね。その中に乾湿はあるはずです
ともすると私は夜に溶けそうだ とりあえずイヤホンという栓
新橋のグレーの中を生きるのだほっとレモンを両手で挟む
湿っぽいってこんな感じですか?
おぉ!
湿っぽいものしか見事にできなくて、面白いですね。よくわからないから量産が楽しい
多感な頃という感じ、ありますね!
若洲に問いかけたら、すぐに短歌っぽいのが返ってきました。このやりとり、見る人が見たらお怒りかもしれませんが何とぞお許しください。まさにゑひが産声を上げようとしていた最初期の意見交換です。
短歌を対で出すとかいいですね
伝統の文脈を踏まえて、返歌とか。一方が作ったものを受けて、もう一方も作る
会わないで活動するというゑひのコンセプト自体、短歌っぽいですしね!
企画名:千返万歌
素晴らしい!連載名もう決定
私の俳句はどこ行った(笑)
若洲は、とにかく早いんです。上原の無責任な問いかけを秒で形にしてしまう。以後このパターンを繰り返すことで、軽いノリで口にしたことを心から後悔する業務量が上原にも降りかかることになるのですがそれはまた別の話。とにかく短歌を作った初日に「千返万歌」という企画が生まれました。「あぁ本当にやるんだなぁ……ゑひを」と、その時はじめて思いました。
(リマインド)いや俳句のユニット、なんですけどね。
いつか、あの時の歌人の方にまたお目にかかることができたら、あの店で間接的に励まされたお礼を言いたいです(お名前が聞こえてきたのでしっかりメモはした)。 その時はそんな勇気は出なくて代わりに歌が出来ました。自解しようにもまだよくわからないので、記念に載せるだけ、しておきます。
眉の無きご婦人方のテーブルにタブレット置く名画のやうに
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