こちらの記事は、月刊 俳句ゑひ 皐月(5月)号の『形から』(作:上原温泉)を、若洲至が鑑賞したものです。まずは下の本編、及び〈前編〉〈中編〉をご覧ください!
前編・中編では、上原による”5月観”について考えました。俳句の世界における5月という月の確立しにくさや印象の淡さを乗り越え、さらに過去の習俗に過度に執着することもなく(最後の「夏の蚕五句」は例外)、現代的な5月のありよう――すなわち五月病の心持ちなど――を描いているものとして鑑賞しました。
最後にお届けする後編では、中編までとは少し異なる特徴を持った俳句を取り上げ、『形から』の鑑賞をまとめていきます。
3回にわたって鑑賞している上原の連作、タイトルは『形から』でした。タイトルの元となった句はこちらでしょう。ちなみにタイトルを一部に含む句のことを、連作における「表題句」と言います。ここまでタイトルには一切触れてきませんでしたが、後編ではこの「形」とはどんなものかを考えていきます。
形から五月のやうに歩き出す
季語の「五月」に関しての考察は、今まで深めてきたとおりです。そもそも俳句の中で月の名前を詠み込むことは難しいのですが、その中でも5月の存在感は決して強くない。しかし、現代人の持つ五月に対する印象を活かしたことにより、作者は「五月のやうに」の比喩を有効に句に織り込むことに成功しました。さらに5月には、4月に引き続いて「新人」的期間が継続していることから、「形から」マニュアルやルールを身体に染み込ませていく時期であるという意味でも、五月ならではの感慨の詠み込みを実現しています。
ではこの作者が採用している「形」とはどんな形なのでしょうか? もちろん先ほどのように、新入生や新入社員のような人たちが、場所の決まりになじんでいくさまと解釈しても十分面白いのですが、それ以外にどんなことが考えられるか、他の句も読んでみましょう。
その前に「形」について私の見解をまとめておきます。以下において、形は「型」とも通じることから、行動規範や行動原理を示していると捉えています。行動原理を定めるのに必要なものは色々ですが、視点や主体意識などが考えられます。
「形」=いきものの形
いきものの形とは
『形から』の「形」の一つは、いきものの持っている形であると私は思いました。次の句を鑑賞していきましょう。
うろうろと螢袋を出て入る
螢袋は植物の名前です。詳しくはこちらで説明しておりますが、ホタルがちょうど入りそうな、丸っこい花の形が特徴的です。
写真を見ていただくと、この周囲を「うろうろと」し、「出て入」ったりすることは、人間には難しそうですね……。この句の詠み手は間違いなく上原なのですが、私は上原が昆虫くらいのサイズになってみたつもりで詠んだ句だと解釈してみました。そうすると、花の周りを行き交う蟻や、蜜を探す蜂(実はどちらも夏の季語)のような目線が感じられてこないでしょうか? いわば生き物を観察した目ではなく、「生き物に成り代わる目」とでも表現できるものです。
この文章を書いている私の目の前に今まさに植え込みがあるのですが、小さな蟻や羽虫の動きを観察すると、いかにもこのような行きつ戻りつの様子であることがわかります。もし仮に虫が俳句を詠めば、このようにでもなるのではないかとも思えるほどの写実です。しかし俳句でこのように生き物を読むことは決して多くありません。
工藤直子という詩人に、『のはらうた』という詩集があります。これには野に生きる生き物が作ったという設定の詩が多く収められています。なかでも『おれはかまきり』は、小学校の教科書にも載るなどしているので、ご存知の方も多いかもしれません。ここに載せることはかないませんが、このように詩人や作家は、ときに作家自身から人格を切り離して物語を構築することができる自由を持っています。
一方俳句の世界では、どんな作家が作ったが明らかでないと読みが難しいとされることが多い印象です。裏を返せば、作家(俳人)自身が自分の人格をぼかすことは、自分の俳句を他者に受け入れられにくくしてしまう、冒険的行為であると言えます。もちろん詩にもその側面はありますが、俳句より文字数や形式の制限が少ない分、物語を構築する自由度は詩のほうが高い。その分、自分と詩の中の「主体」をずらすリスクは低いように思います。
「うろうろと螢袋を出て入る」言っていることはあくまでこれだけながら、俳句のスタンダードに挑戦する姿勢を私は感じました。
なお若干無理があるように感じられるかもしれませんが、主体が「人間」であるという読みも、また面白いかもしれません。なぜわざわざホタルブクロの周りをうろうろしているのか。これだけでは謎でしかありませんが、その違和感の中には、人間ではないものに対する同情や憧れに似た感情があるのではないでしょうか。その意味で、詠み手がいきものに成り代わっているという先ほどの鑑賞・解釈と、本質的には変わりません。
以上を踏まえると、5月に上原が影響を受ける「形」は、まずはいきものの形だと考えられます。そこには初夏に盛んになる生命のイメージが重なります。
いきものを見る人間の「形」?
先ほどの句と似たような視点を持つ句は他にもあります。
あつちには泉の見えて犬必死
夏の青空、もしくはジメジメとした蒸し暑い曇り空の下で、犬を散歩させている作者。木陰に水の湧く場所があって、周りに冷たい水が広がっているようです。その存在を早くから嗅ぎ取り、まさにその場所が見えてきたとき、そちらに向かっていこうと勢いよく駆け出した犬がリードをピンと張らせたような情景です。散歩させている側からすれば、泉があることは当然なのか(あるいは知らなかったのか)、そこを通過していくつもりだったのでしょうが、何やら犬は行きたくて仕方がないようです。暑い地面の近くを歩き、毛に覆われていて人間よりも暑さを感じている、そんな犬の様子がありありと見えてくると思いませんか。
この句では「犬」を句の中で明示していますから、詠み手は人間であるということになります。また「必死」は、犬の様子を読み取った人間が使っているワードで、人間による恣意的な把握です。リードが張っているとか、前足が浮くほどであるとか、呼吸が速いとか、そういった客観性のある表現ではありません。
先ほどの句は「視点」そのものにオリジナリティがありましたが、今回はあくまで人間による句であり、そこには独自性がありません。その中で「必死」という描写がどれだけオリジナリティを持つかは判断の分かれるところだと思います。「必死」を安易な作者の把握だと指摘されることも、もしかするとあるかもしれない。高浜虚子の時代から俳句が客観写生をヨシとしていることを考えると、「あつちには」「必死」という把握を、写生によって改善する余地がある可能性は残ります。それが、この項目を疑問形で始めた理由です。
とはいうものの、いきものに寄り添う目線を投げかけていることは確かです。「必死」という言葉は、犬の心情を察することがなければ出てこないでしょうから。そこには前の句とつながるものが感じ取れるでしょう。
「形」=洞察の形
もう一つ取り上げる「形」は、洞察の形です。物事を見通す力が洞察力ですが、上原の場合は「形から」見通した結果、ものが透けて見えるようになったようです。
石楠花や頂に立つ肺と肺
漢字の読みが難しいですが、石楠花は花の名前。つつじのような形の花がくす玉のようにまとまって木に咲きます。高地の頂上で石楠花と、その周りにいる人の姿を捉えた作者ですが、人ではなく、肺が2つあると捉えたようです。
素直に人だと言えば良い、立つ人を見ても「肺と肺」であるとは感じられずリアリティがない、とも思えるかもしれませんが、前者では単なる石楠花と頂上の取り合わせとなり、作者の目を活かした上での根本的な解決になりません。後者の指摘は多くの賛同を得そうですが、果たして本当に現実味がないでしょうか? 山の上に行った時の涼しい空気を身体に取り入れようとすると、肺が大きく動き、胸の中が冷たくなる身体感覚を持ちます。つまり人物を見ている作者自身が澄んだ空気を吸い込んでいるがゆえに、他者の肺も感じられるようになったのではないでしょうか。肺が見えたところに、石楠花の「集合体」の形状、そして赤々とした色合いが重なってくる。こうしたイメージのマリアージュが1句の中で実現しています。
上原の「形」と俳句
俳句を作るにあたっても、ものの本質やありようを、人とは違う形で捉えることが必要なことがあります。上原の洞察は俳句の中で受け入れられにくい側面も持ち合わせていますが、それをさらに発展させて俳句に取り入れていくには、上原自身「形から」入る必要があるのかもしれません。
一方で前編から触れてきた「五月」の解釈や、「いきものの形」を俳句に取り入れる姿勢は、俳句の世界の中では残念ながらスタンダードではありません。こうした独自の部分を殺すことなく進んでいくことには、大きな困難が伴います。酔人問答④〈ゑひ[酔]の決意〉で、上原は内面を俳句で写し取る技量の必要性を自覚したようですが、独自性を俳句に落とし込んでいく上で、まずは季語・音韻など基本的な「形」を重視しつつということになるでしょう。
そんな上原温泉黎明期の作品『形から』の鑑賞の補助線となるような文章構成を目指して書いてまいりましたが、いかがだったでしょうか? 今後もぜひご一緒に見守っていただけると幸いです!
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