上原・若洲が返歌に挑戦! 一方の頭にふと浮かんだ短歌から、返歌の世界が始まります。そしてさらに、2首の世界から思い浮かんだ物語などをノールールで綴る企画です。第10回は若洲発・上原着。文章は若洲の担当です。
千返万歌
ストレートティーしか飲まぬ人だけどこの紐ならば人も縛れる
若洲至
ストレートティーしか飲まぬ人だけどこの紐ならば僕を縛れる
上原温泉
文章編:どっちがいいと思いますか?
ストレートティーだからという訳ではないですが、今回はストレートなタイトルで。本歌と返歌、どっちがいいと思いますか?
どっちも変わらない、というかこの題材選択にいい歌になる上で無理があるとしたら、それはもう私たちの限界なのですが(汗)、その一刀両断で議論を止める手前で、微妙な表現の違いがどれくらい歌の出来に影響しているのか、を考えてみたいのです。
共通点と相違点
改めて整理すると、共通点と相違点は以下の通りです。
- 共通点:「ストレートティーしか飲まぬ人だけどこの紐ならば」、「縛れる」
- 相違点:若洲「人も」/上原「僕を」
表現上の相違点はたった2字、音にして3音しかありません。この文章では、2つの歌に共通する世界と、歌の相違点から生まれる違いについて考えていきます。まずはそれぞれの歌の共通点から整理します。
共通点1:上の句と下の句
現代語で作られていますので、この歌の意味はある程度明確です。歌の詠まれ方から思うに、これは作者(詠んだ人)が心のなかで思ったことなのでしょう。
*歌の作者は若洲および上原ですが、若洲の個人的経験と結びつけて考えることはやめておきます(必ずしも歌の作者と作中の人物を重ねて読む必要はない)。
作者の面前には、誰か「ストレートティーしか飲まぬ人」(以下、「第二者」)がいます。この述べ方から推測すると、作者と第二者の間には、飲み物の好みや傾向をわかるくらいには一定の関係性が継続しているようです。最低でも一緒に仕事をしているか、より高い可能性があるのは恋人か、家族か、それくらいの関係はありそうです。
下の句に当たる「この紐ならば人も/僕を縛れる」は、一見当たり前のことのように見えます。一般に、紐はものを縛れるという性質を持ちますから、倫理的問題はあとに置くとしても、当然「僕」も含めた人を縛ることができるでしょう。
(論理構造)命題「ストレートティーしか飲まぬ人」∧「この紐」⇒「僕/人を縛れる」
共通点2:接続詞「だけど」
第二者についての記述と下の句を結びつけているのは「だけど」という逆説の接続詞です。ここに歌の作者の心情や前提、考え方が表れているように思います。
逆説の接続詞を用いていることで、作者の前提としている常識が垣間見えます。作者にとっては、ストレートティーしか飲まない人が人/僕を縛れることは想像から離れたことなのでしょう。
これはある種作者の勝手なイメージとして受け取るほかない気がしますが、作者の無意識な前提としては、ストレートティーしか飲まない人は、人を縛らないものである、人/僕を縛ることのできる人は、ストレートティー以外を(積極的に)飲む人であるということになるでしょう。まあ確かに、人を縛りたい衝動を持っている人は、酒なりエナジードリンクなりもうちょっと激しい飲み物を飲みそうかな、くらいは共感していただけるかもしれません(?)。
この歌においては、ストレートティー以外を積極的に飲まない第二者が、(この紐を用いて)人/僕を縛ることができるのではないか、という把握をしたところに、作者の中での発見があるのです。
共通点3:人/僕は縛られているか
「人も/僕を縛れる」という表現は、表面的な印象より複雑です。「れる」は縛ることができるという可能の意味で解釈するのがもっとも自然でしょうが、実際にいま人/僕が縛られているかといえば、そう断定することはできないような感じがします。もちろん今人/僕が縛られていても特段問題はありませんが、もしそうなら「縛られている」とか「縛られた」という事実を述べた表現になりそうだからです。
上記から今縛られが実行されていないとすると、なぜ第二者がこの紐なら人/僕を縛ることができると考えているのかは不思議です。ここには、作者と第二者の関係性における過去の出来事が影響しているのではないかと思います。それを踏まえると、過去に作者が第二者に(この)紐で縛られたことがあるとか、紐でなくても作者は常に縛られる側にあるか、あたりの推測が立ちます。
「縛る」という言い方だとマイナスにも受け取れますが、「縛れる」と言ったこの場合の作者には、縛られることをそんなに嫌がっている感じはありませんね。この点が、作者と第二者の関係を、冒頭で恋人や家族ではないかと考えた理由です。
共通点4:「この紐」はどんな紐か
では、第二者が「人/僕」を縛ることができるという「この紐」はどんな紐なのでしょうか。
問を立てておいてなんですが、これは全くわかりません。人を縛ることのできる長さがあるというのは条件はクリアしないといけないはずですが、それ以外の何らかの特徴は読み手の想像の中で作り上げるしかないでしょう。あえて言えば、このあたりの無意味なぼかしが、この歌の出来を左右している気がします(冷静になれば、ない方が良い気もする)。
ここまでの内容からわかる、2つの歌に共通する世界をまとめておきます。これらはともに、作者と(恋愛や家族、または仕事上などの)深い関係性にある第二者と(特徴の特定できない)紐が眼の前にあって、今までの第二者の行動から、第二者が紐を用いて作者あるいは人間一般を縛ることができるのだ、という作者自身の認識・発見を述べた歌だということになるでしょう。
相違点:「人も」か「僕を」か
ここまで書いてみて、この本歌と返歌の出来は、ほぼ共通点で決まっている気もしてきましたが、表現上の相違点から来る読みや詠み手の考えたことの内容の違いを考えたいというのが、今回の本題です。
若洲作の「人も」の場合は、第二者によって縛られる対象が人間全体に設定されています。これは、作者が過去に縛られた(あるいはそれに類似する)経験をもとに、第二者の特性を拡張して捉えたものだと考えられるでしょう。
一方の「僕を」はより直接的で、際立つのは「僕」=作者と第二者の関係性です。共通点3で「縛られることをマイナスに捉えていない」と推測しましたが、この表現からはそれ以上、縛られることを肯定している、望んでいるとまで言ってもいいと思います。筆者の力不足につき、論理的に説明するのは難しいのですけれども……。
筆者の結論:詠み手の心情をより捉えているのはどちらか
上で指摘した違いを要約すれば、作者と第二者の2人の間に、あえて他人の存在や視点を含めるか否かです。歌に相違点があるということは、そこから伝わる内容に差があるということですが、さてどちらのほうがより詠み手の心情を理解することに苦がないと思われるでしょうか。
つまりこの歌の詠み手が言わんとしている内容を伝えようとする時に、他人の存在や視点は必要なのか、が判断の分かれ目です。すなわち必要でないなら「人も」、必要でないなら「僕を」のほうが良いことになります。この判断は読者側の経験や思考パターンにも大きく左右されるものですが、ちょっと考えてみましょう。
共通点1と3で説明した第二者の特徴は、その人のことをよく知っている作者だからこそわかることです。浅い関係性の人にとっては、第二者はそうは映らないはずです。なぜならそう思う根拠がないからです。
さらに、第二者の「人を縛れる」という事実やその断定は、すべての人間がその客体となる可能性があるのか、つまりこの第二者は誰も彼も縛ろうとするのかといえば、そんなことはないでしょう。もしそうなら犯罪者予備軍です。「縛る」という言葉が肯定的に捉えられる気がするのは、個人的な関係性の中だからです。そうだとするならば、あえて縛られる可能性のある人を拡張して「人も」という必要はない、というのが筆者の意見です。
この2首の歌を比べて、改めて「僕を」のほうを読み直すと、「僕」が第二者との関係性をどう捉えているのかも伝わってくることがわかります。第二者が自分にしか見せないある種のサディスティックな姿を知っている作者=僕。それを歌にする姿勢からは他者に対する優越感のようなものが垣間見えます。
その人について誰かと話しているとしたら、
(他者)「あの人ってすごく礼儀正しくて優しい人だよね」
(「僕」)「そうだよね~(心の中:でも僕といるときは自分を勝手にしてくれる、そんなところもいいんだよな……)」
みたいな感じでしょうか。
筆者の想像が暴走してしまいました申し訳ありません🙇♂。
Behind the Scene
冒頭で明示している通り、もともとこちらの2首は、若洲の「人も」→上原「僕を」の順にできました。上原の歌は、若洲が歌を送った4分後に提出されました。結論で表現した通り、筆者が持っている心から出た表現として、「僕を」のほうがより適切だなあと送られた時に感じたため、かなり悔しかったのです。それで今回は推敲のような2首を並べ、違いについて述べてみることにしました。
上原も若洲も、短歌に関しては超初心者です。俳句で学んできた善し悪しの付け方を最大限参照しながら短歌の技能向上を独自で模索しています。その過程を今回は少しご紹介してみました。
なお、短歌技能向上の奮闘記「ゼロから始める短歌記録」というシリーズを上原が書いています。ぜひそちらもご覧ください!
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