破れ傘のオーバーラップと青髪の展く世界【月刊 俳句ゑひ 皐月(5月)号 『無題2』を読む〈中編〉】

月刊俳句ゑひ
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 こちらの記事は、月刊 俳句ゑひ 皐月(5月)号の『無題2』(作:若洲至)を、上原温泉が鑑賞したものです。まずは下の本編、及び〈前編〉をご覧ください!


コンセプトの提示~2ブロックめに着目して~

破れ傘あんな姿で帰すことに
夕虹が出てゐてボルボ欲しくなる
菖蒲湯に足が痺れたまま入る
エンヂンを冷まし傘雨の忌なりけり
新しき眼鏡で見たる四十雀

 前編に引き続き、若洲の連作における句の並べ方を見ていきたい。スマホでご覧いただく1ブロックめの5句は、作中主体の移動を追体験するような一連であったが、2ブロックめではその連続が絶え、なんというか、コンセプトがピリッとしてきた。なかでも筆者が大いに気に入っている一句を鑑賞したい。

オーバーラップする”破れ傘”

破れ傘あんな姿で帰すことに

 季語「破れ傘」は、夏の季語。破れた傘のことではなく、山地に自生するキク科の多年草である。別名キツネノカラカサ、ウサギノカサなどとも呼ばれ、春の若芽は食用として人気がある。若葉のころの開きかけた傘のような姿が面白く、成長すると傘を開ききった形になる。花はあまりパッとせず、掲句が5月号に発表されていることからも、詠まれているのは5月のこんな葉ではないかと。

半開きの破れ傘ヤブレガサ

 そのインパクトも大概であるが、対抗するフレーズも何やらスパイシー。そして掲句を読むには、俳句の作法を半端に知っていることが徒となり、一読、読みを確定しづらい。まずは微妙にツッコミが入りそうな「あんな姿」の検討から。

 そのまま読むと、意味としては、(まるで)ヤブレガサ(のように)、うらぶれた、或いは、わびしい、或いは、切ない姿の誰かを、帰してしまった……となる。前提として、季語を比喩的に用いることについては、季語の本意を得ず、として却下する俳人が多い。比喩的な使い方をすると、破れ傘という植物が眼前に存在しないか、あったとしても存在感が乏しく、その季語をわざわざ持ち出す根拠はどこにあるの? みたいな言われようがあるのだ。

 だから掲句の、そう言われないための対策ともなってくるのが、上五の切れ。「破れ傘/あんな姿で帰すことに」。言葉の繋がりをいったん絶つことで、破れ傘は比喩ではなく、実際にそこにある、と確定させた。

 では、破れ傘から切り離されたからには、「あんな姿」の「あんな」はいったい何を指し示すのか。今度はそこが明確ではないと言われるかもしれない。しかし破れ傘のユニークな形はそこにあるともう決まったのだ。あるからにはオーバラップさせるのが自然、それが句の流れではないか。掲句は、禁忌とされる季語の比喩化を回避し、同一視の手法によって同じことを伝えようとしているのではないか。「あんな姿」は結局、破れ傘のような姿として読者の脳裏に刻まれるしかないではないか。かように形式においての綻びが無い作者ではある。

 次に、「帰すことに」を考えてみよう。上述のとおり、破れ傘は山地に自生する植物であるから、句の場面としては山中が浮かぶ。山奥で、主体と客体が、帰し帰されている。山奥に暮らしていない筆者が、日常では滅多にお目にかかることのないその状況を理解するためには、情報がいささか足りない。これが家の中で、採ってきた破れ傘をこれから天ぷらにしようかという話ならわかりやすかったが、山菜として食用に適する時期は春であるから、それでは季節が合わなってくる。

 さて。特に初学の方を偏った私見へ引っ張り込まないよう、俳句のスタンダードな作法に則ろうとしている筆者ではあるが、ここまでは頑張ったので、そろそろ本音で書いてもよろしいでしょうか?……書かせていただきます。

 筆者は「帰すことに」の意味や整合性は、この句においては、気にする必要が無いと考えている。誰が誰を帰したのか、なぜ帰したのか、そこはどこなのか、読む人が読みたいように読んでも、句の良さが損なわれないと思っている。

 まず破れ傘の、思わず目を止めたくなる珍妙な形を思えばいい。あんな姿という言い回しの滑稽味を、数秒遅れで味わえばいい。帰すことになってしまった事情のわからなさを、わからないまま面白がってしまえばいい。その可笑しさのすべては、破れ傘という季語へ還元されていくのだから、究極の言い方をするなら、この句は「破れ傘です。」としか言っていない。インパクトのある季語だからこそ、そんな読みも許されるのではないか、正しくはなくても、面白くは読めたのではないか。そんなふうに考えています。

開ききった破れ傘

微かな翳り~3ブロックめに着目して~

愛鳥週間や土鳩のアンダンテ
母の日のバターの銀紙を展く
山積みの葉野菜光る更衣
実桜や親の写真はざらついて
青髪にしたき卯の花腐しかな

 連作の2ブロックめに置かれた、香辛料のようにピリリとした一連に続き、3ブロックめはトーンをまた変え、微かではあるが、かげりのようなものが出現する。

 なお「愛鳥週間や土鳩のアンダンテ」は、「ゑひの歳時記 皐月〈愛鳥週間〉」にて取り上げているので、そちらも是非ご覧ください。

「展く」が意味すること


母の日のバターの銀紙を展く

 まず目慣れないのは「ひらく」だろう。代わりに一般的な「開く」を用いたとしても誤りではないが、「展く」は「開く」よりも、小さくなっているものが広がる、という意味合いが強く、畳まれた紙や閉じた本を広げるような場合においては、より本意にかなう漢字表記といえる。

 状況としては、これからクッキーかケーキを焼くのだろうか。作中主体がバターの銀紙をひらいているワンシーンを思った。幼い頃に母がしてくれたことを、今度は成長した子どもが返そうとする。そんな母の日の交感は、バターという甘やかで郷愁を誘うモノに置換された。部屋にこれから広がるであろうバターの香りを想像すると、嗅覚が刺激され、懐かしさにこちらの心まで溶けそうになる。

 しかし、かように動詞の精度を高めたことによる再現性を喜び、すぐれた写実句になりましたね、との満足をもって終わらせるなら、この句は「たいへんよくできた句」の範疇はんちゅうを出ない。果たしてそれだけだろうか。

 そこで「展く」は、またもキーワードになる。母の日に象徴されるもの、これまで自身を守ってくれたものは、一人で生きる力を得た子どもにとって、今は張り付く銀紙でしかない。その認識の変化を、「開く」ではなく「展く」なら伝えることができる。銀紙の中の狭い世界を広げ、そこから出た作中主体は、永遠に大きい母の愛に対し、感謝と同時にある種の別れを告げている。同じ季節を経た大人たちの、痛みやすい記憶に刺さって、泣けます。

連作にある魅力”更衣”

山積みの葉野菜光る更衣

 「更衣ころもがえ」は、現代にもまだ馴染みがある言葉だが、俳句においては夏の衣服に替えることをいう。ちなみに、冬の衣服に替えることは「後の更衣」として区別する。

 更衣の時期、5月ごろに出回る葉野菜の瑞々しさをあますところなく伝えた佳句であるが、この句がもし1句単体だったら、そのあまりの地味さに、伝統俳句の素養が足りない筆者なら見過ごしてしまった可能性がある。

 最近はもっぱら連作に興味が向いているのだが、句の並べ方や構成によって、それぞれの句がまったく違って見えたり、単体では目立たなかった句が生き返ったりすることに心が踊る。筆者にとっての掲句はまさに、連作の中でこそ光り出す句で、翳りのある3ブロックめのここへ配置されるあたりに構成の上手さを感じる。

 いささか主観が過ぎる読みは、この句の違う良さ、本来の読みを打ち消すことにもなるため詳述は避けるが、筆者の場合は連作の流れを汲むように理解した。「山積み」にされた葉野菜が、瑞々しく「光る」。「更衣」が伝える季節の移り変わりとも相まって、母の目線を感じる句であった。

フィット感の塩梅”実桜”

実桜や親の写真はざらついて

 バターの銀紙を展いた作中主体はすでに親から遠く、親は写真の中にしかいない。「ざらついて」が、古い写真の手触りを伝え、触れる者の心の翳りを伝える。連作中でも特に好きな句のひとつであるが、「実桜」は、ややハマり過ぎかもしれない。このあたりは判断の分かれるところで、実桜の「実」、実るの「実」が、親子関係、子の成長、自立、を詠む場合には、いかにもピッタリし過ぎなのでは? と迷った。そのフィット感を、だから良しとする人もいるし、筆者なら少しズラした季語を配合したくなるわけだが、あとは作者の好みだろう。正解はない。

色の混線に感じる若さ”青髪”

青髪にしたき卯の花腐しかな

 3ブロックめのラストは、連作の流れとしては「どうしちゃったのかな?」な展開である。句意は美容室へ行って髪を青く染めたい、ということであろうし、そこに変身願望と、抱えた屈託を読み取るだけでも詩情は成立している。母なるものを離れた作中主体の、その後の心境を代弁し得る句と考えれば、うべなえる一句。ただ筆者は少し違う読みも足したい。青春の屈託だけでは、概念に手垢がつき過ぎて、句が凡庸に見えてしまうから。

 花腐はなくたしとは、卯月(旧暦4月の異称)に降る長雨のことをいう。わざわざそのように言い換えているのだから、雨に濡れる卯の花の白さをイメージしながら読むとよい。一句にある複数の色彩の打ち解け合いが、得も言われぬ風情を醸し、その表現のゆかしさには、現代のみに留まらない色の世界観を感じる。

 文字が生まれた頃の日本語においては、色は「赤」「黒」「白」「青」の4色であったと言われる。文字の誕生以前の日本語となると、「明るさ」と「濃さ」だけで色を判別していたらしい。そこから、赤は明るさ、黒は暗さ、白は濃さ、青は薄さを象徴し、さらに心情や状況にまで派生する意味を併せ持つようになった。昔の日本人の、色についての感性は、現代人のそれとはだいぶ異なっていて、単なる色の名称という以上に広義な使われ方をしていたようだ。

 そしてこの4色には、紅白歌合戦のような「赤と白」、信号機に見られる「赤と青」、シロクロつけるという表現が知られる「白と黒」のように、対になる色の組み合わせがある。句に当てはめれば、実景の中に見える色彩は「黒」(まだ青く染める前の黒髪)と「白」(卯の花腐し)。対、である。
 黒の暗さから派生した言葉には、「黒い霧」「黒雲」「腹黒」などのようにネガティブなニュアンスを持つものが多い。今でも「黒歴史」「ブラック(企業)」などといった言い方がある。そんな「黒髪」を、作中主体は「青髪」に変えたいと願う。「青」は、「青春」「青年」のように、未熟ではあるが、未来を感じさせる言葉を持つ。卯の花腐しの「白」と一対にはならず、黒&白の激しくはあれど予定的な調和を、異なるイメージや、対にならない独立性によって乱しはしても、ネガティブなものを払うという意味では吉なる色であり、されどいろいろ言ったわりに、句中まだそれは願いの域を出ていない。

 この、捻れに捻れた色の回路の混線を、まさに若さと見て、筆者は面白く感じる。「青髪にしたき」の措辞には、3ブロックめの句群に通底する、羽ばたく心の葛藤があり、その苦味を卯の花腐しの雨が洗い流した先には、新しい色を塗るための空白が広がっている。


 なかなかに凝られた若洲連作の構成、その静かなダイナミズムを伝える次回、後編は、最後の5句の中から鑑賞する。頑張って書きますので楽しみにお待ちください。

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