繰り返される脱出の物語【月刊 俳句ゑひ 皐月(5月)号 『無題2』を読む〈後編〉】

月刊俳句ゑひ
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 こちらの記事は、月刊 俳句ゑひ 皐月(5月)号の『無題2』(作:若洲至)を、上原温泉が鑑賞したものです。まずは下の本編、及び〈前編〉〈中編〉をご覧ください!


マザーコンプレックスからの、~最後の5句に注目して~

直に当たる中央線の扇風機
映画館出ればまぶしや少し汗
黙りたいこともあるキャベツのやうに
黒い犬に黒い目のある夏の夕
聖五月ソファーをふつと捨てにけり

 前編、中編と、若洲至の連作がどのように構成されているかについて考えながら鑑賞してきた。いろいろあった連作だったが、後編は、日常生活に戻ったらしい最終の5句から。

旅と日常の接続”中央線”

直にあたる中央線の扇風機

 この句について書くのは、できれば避けたかった。鉄道の知識をしっかり頭に入れないと鑑賞できたことにならない気がするから。若洲の句の鑑賞は調べ物が多くて困る。

 まず扇風機でハテ? と思う。エアコンが主流になりつつある現在、扇風機の付いている車両がどこを走っているのかが筆者にはわからない。とりあえず古い車両ではあるのだろうなとの見当をつけておく。

 そして中央線。国鉄の時代の中央線は、中央本線とその支線を指す 「総称」だった。それが民営化された時、“すべてが中央線” になってしまった。なので現在は、東京駅から長野県の塩尻駅を経由して名古屋駅までが、広義の中央線ということになっている (調べました)。内訳は、鉄道好きの人ならそれが嬉しくてたまらないややこしさなのだが、明らかにするのは本項の主旨ではないので割愛する(というより、調べるだけで疲れてしまい書く元気が残っておりません)。
 ともあれ、その路線の長さや支線の広がりを中央線のイメージとして持っていただけると有り難い。その中のどこかを走る、まだ扇風機の風が顔に当たるような古い車両に、連作冒頭の5句にあった旅情とも繋がるような片鱗がある。日常へ戻っていくその1句めに前段の余韻を残し、終盤へ滑らかに繋げる工夫を感じた。

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中央線(イメージ)

勇気と抜け感の魅力”少し汗”

映画館出ればまぶしや少し汗

 ラストスパートはかけないようだ。スッと力が抜けるような一句。調べもの無しで鑑賞することができるのも個人的には助かる。
 
 「まぶしや」は、勇気があった。こんなにまで当たり前を述べることは、筆者ならば少し怖い。好きな俳人、好きな方向性のひとつに岸本尚毅の作風があって、重なるものを感じる。

WOWWOWと歌あほらしや海は春 岸本尚毅

 直近の句集『雲は友』の中で、筆者がいちばん好きな句だ。この抜け感に憧れては失敗する自分。若洲なら、上原の骨を拾って進んでくれるかもしれないと思う。

 勇気も良かったが、「少し汗」がまた良い。手に汗握る映画だったのかもしれないし、館内の空調が不具合で暑かったのかもしれないし、まぁどちらでもよい。外へ出たとたん、汗ばむ顔に光が当たり、ズームアップ。切り取られたその表情だけを見ていたい。

NGてんこ盛りの”キャベツ”

黙りたいこともあるキャベツのやうに

 今シリーズ中編で取り上げた「破れ傘あんな姿で帰すことに」の項において、季語を比喩的に用いることに対する否定的意見を紹介した。若洲がいかに見事に比喩を回避して一句をものにしたか、手放しで賞賛してやったというのに、ここへきて「キャベツのうに」。まごうことなき、夏の季語「キャベツ」の比喩化に、見える。

 筆者は、俳句界のルールにあまりというよりほとんど厳しくないので、掲句の解釈は受け止め方次第かなとは思っている。つまりキャベツのように、と言ったら、そこにキャベツは無いのか? という話である。

 さらに言えば、比喩以外についてのNGも。「黙りたいこともある」は、コッテコテの主観ではないのか? 俳句は思いを言えないはずではなかったか?情景が見えず、キャベツは比喩。いやはや何とも、NGてんこ盛りである。

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黙るキャベツ(イメージ)

 それで筆者は「でもキャベツだから大丈夫」との立場を取ることにした。掲句はキャベツの写実句として読むことができるのではないのか? と提案したい。「黙りたいこともある」は主観を述べているのではなく、キャベツを観察した結果、作者にはそんなふうに見えてきて、それを形容的に表現したフレーズ。「キャベツのように」は、「(目の前にある)キャベツのように」であって、実際にキャベツはそこにある。「黙りこくっているようにも見える、ドンと置かれたキャベツ」を、感覚的に写実すると、この作者にとってはこういうことになる。言葉を組み替えて、文体を遊んでいるのだ。

 キャベツは、重量感と、幾重にも重なる葉の集合体という成り立ちが、主観のような措辞や、比喩的用法を上回るパワーを持つ。毎回成功するわけではないが、今回はキャベツだったから、筆者的にはOKだ。ただし筆者特有の読み方につき、倣わないほうが無難です。

色彩感覚の回収あるいは再来”黒い犬”

黒い犬に黒い目のある夏の夕

 目まで黒い犬が、暮れきらない夏の夕方に佇んでいる。まもなく日が暮れれば、闇に飲まれてその存在は見えなくなるだろう。夜空にカラスの発想だけなら目新しさはないが、この犬はまだ見えていて、やがて見えなくなるまでの僅かな存在感、それが不思議に確かだ。そんな犬の佇まいに、素通りできない魅力を感じる。

 または、シリーズ中編で取り上げた「青髪にしたき卯の花腐しかな」で作品に見られる色彩に注目したが、その回収のようにも読めた。最終句のひとつ前は最後のフックを置く場所と、筆者が何となくそのように考えているせいかもしれないが。

 連作の作中主体は結局髪を染めず、黒髪のまま、まだそこに居る気がする。家の中では華であった自身も、世間に出れば簡単に埋没しそうになる。その焦りやあがきも自立アルアルだろう。黒い目を持つ黒い犬に投影を感じるのは、作品を流れの中で読み進むゆえである。

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「マザコン」からの解放と、それ以上”聖五月”

聖五月ソファーをふつと捨てにけり

 スッと抜いた力で、フッと置かれた最後の句、読後感は軽い。だからあまり意味を求めないで味わいたいところではあるが、若洲至の句に「何となく」や「たまたま」はないし、実際、読み解けば興味深い。

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 「聖五月」は、初夏の季語「五月」に含まれる子季語で、カトリックの教会においての呼称「聖母月」にちなむ。なお「聖母月」も「五月」の子季語。カトリックの教会では、5月は聖母マリアを祝う月とされている。カトリック信者であった平畑静塔の「鳩踏む地かたくすこやか聖五月」あたりから使われ始めた比較的新しい季語だ。「五月」とのみいえば、その明るさ、光の目映さなどを思うが、「聖五月」は宗教的な陰影を帯び、少し複雑な季感を表現することもできる。

 聖母マリアという呼び方は、その聖性を承認している正教会とカトリック教会においてのみなされる(マリアはただの人間でありイエスの母でしかないと定義するプロテスタント教会にはマリア崇拝がなく、礼拝堂にはマリア像がない)。聖五月という季語の背景にあるマリアは、親としての母ではなく、聖なる母、つまり象徴なのだ。

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 掲句の理解において、それは非常に重要なポイントと思う。前編で鑑賞したさ迷うような移動、中編に見られた母からの展開、その流れの最後の最後に置かれたこの句の背景にある「母」は、もはや母ではなく、人的な母性の概念も超え、聖なるもの、霊性の領域に達したことになるからだ。

 今回の連作は、単なる「マザコン」からの解放を描くこと、には終わらない。人が一生をかけて向き合っていかねばならない「略さない」マザーコンプレックスの物語、その連作上の着地が最後の句だと、筆者は読んだ。

 ソファーを捨てたとなると、引っ越しの準備中であろうか。「ふつと」に注目すれば、そこにはむしろ意志を感じてしまう。拭い去ることのできない「聖なる母」を、それでも今は捨てなくては前へ進めないどうしても。旅をしたり家を出たりソファーを捨てたり転居したりと、誠に忙しくてご苦労なことではあるが、昔から人が成長するとはそういうことだった。気が済むまで脱出を試みよう。繰り返そう。聖五月はまたやって来る。そうだとしても。


 以上で若洲至の5月号連作の鑑賞を仕舞いとする。つくづく上原とは異なる思考回路、俳句の作り方、何より緻密さであった。筆者は鑑賞文の執筆が学習を兼ねるので有意義だが、自由過ぎるその読みをあまり真に受け過ぎないで欲しい。楽しく読まれるならば本望である。

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